2012年6月10日
「強いキリスト」
榎本栄次 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙二 13章 1-10節
パウロが弱さを誇ると言うとき、ただ弱いことを誇るのではない。そこに主イエスが共にいてくださるから弱さを誇るのです。人を信頼するということは、信頼される側の価値よりも信頼する側にその力があるかどうかが問われるのです。それは相手の中にある可能性を見抜く力です。「あの人はだめな人だ」というとき、半分はこちら側も責任があることを忘れてはなりません。非難合戦で傷つけ合っているとき、少し静まって神の言葉に耳を傾けてみましょう。その人の中に、神さまが共にいると言うことを知ったとき、どのような人も否定できなくなるのです。神さまは土の塵からでも人をお造りになることを信じることが信仰です。自分に対しても相手に対してもその信仰を抱くことです。それが信頼の根本です。どのような人の中にも思わぬ光のあることに気づきます。人は簡単に判断できません。ただしこれは善悪を曖昧にすることとは違います。
使徒パウロはコリント教会の人たちへの手紙の締めくくりとして、「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなた方の内におられることが」(5)と言っています。反省したり、吟味したりすることは、自分の不足、欠陥を指摘するときに使われる言葉ですが、ここでは自分の中にキリストがおられることに気が付いていないことを反省し、吟味しなさいというのです。「自分の内にキリストがおられる」ことを考えたことがありますか。それを知ることが吟味したり、反省したりする内容です。私たちは自分のことを棚に上げて、人のことをあれこれ批判することがよくあります。自分の利益や、自分の価値観や都合で人の善し悪しをはかるのです。そこでは自分を吟味していません。それで自分を守っているような気持ちになるのですか、逆です。自分のことが半分も分かっていないのです。なぜならキリストが自分の内にいて下さることを知らないのですから。ましてや相手の中にもそれを認めないのです。見えること、聞いたこと、自分のその時の感情で判断していると、自分も相手も正確に把握できていません。
コリント教会は分派や分裂で、主の福音から外れて非難合戦になっていました。パウロはこの手紙を書く前に2度コリントを訪ねました。その都度、説得しますが返って逆効果で、パウロに対して非難が増す状態でした。このような教会に対して、この手紙「涙の書簡」を書き送ったのです。もう一度主の教会としての回復を求めて書かれたものです。パウロの勧めるエルサレム教会への献金に対する反発は、金に汚い、使徒権があるのか、風采が上がらない、他の使徒と比べて話が感動的でないと言った不信が起こってきたのでした。更に、パウロの語っている言葉が真実にキリストのことを語っているのだろうかという疑問まで出ました。「あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めている」(3)と言うように、パウロの説教に対する信頼が見られません。
説教は個人が語るのですが、その個人を通して神の言葉が語られるのです。の曽池委の年賀信頼を生みます。それは語る側と聞く側の両者の責任です。説教する者も、それを聞く者も、聖書の真理については、どんなに緻密であったとしても傍観者のように眺めているだけでは、真理はつかめません。もしパウロがここに来たとしても、たとえイエス様が来られても信頼にはならないでしょう。返って十字架につける結果になります。何よりもそこにイエス・キリストが共におられると言う信仰が必要です。それが説教を聞く姿勢であり、礼拝の基本です。弱さの中に働く「強いキリスト」が現れる。それが自己認識です。その時、説教も礼拝も完全なものとされるのです。そこを吟味しましょう。
自分の中にキリストがいてくださっていることを知る時に、この不完全な者が完全な者へと作りかえられる。その信仰の目を持って自分を見、相手を知る者でありたいと思います。キリストにあって、「完全な者となりなさい」。自分を反省し、吟味しましょう。そこにこそ「強いキリスト」に出会えるのです。