2012年6月3日
「人を造り上げる」
榎本栄次 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙二 12章 19-21節
「伝道」とは何でしょうか。道であり、命である主イエスの福音を人々に伝えることですが、それは単に教会を大きくするということではなく、神さまの方に人々を導くことです。教会はまさにそのために存在します。またそれは広い意味で人づくりとも言えるでしょう。人が人らしくなること、その人が本来の姿にされること、それを援助することであり、福音伝道の本質と言えるでしょう。自分の党派や取り巻きをつくることではなく、神の御心に添うように人々を造り上げる業です。それは、私のコピーを造ることではありません。こちら側に正解があり、それに似せて造ることではなく、その人が本来持っている、神の似姿としての自分を探しつつ、取り直すこと、そして共に育つ共育こそが求められている伝道ではないでしょうか。
「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記1:27)とあります。天地創造物語の一節です。神は「昔いまし、今いまし、後に来たりたもうお方」であり、神の創造の業は過去の一回的なものではなく、今日も続いており、この地球の隅々で、物や 人の業を通して未来に向かって進められているのです。そしてその神の業を「神の宣教」(ミシオ・デイ)と言います。その業に参与することが伝道であり、宣教であります。それが「神の民となる」ことです。「神は御自分にかたどって創造された」は、「神の方に向かって創造された」という意味です。私たちはそのようにされるときに初めて自分と出会うことができるのです。
パウロはコリントの教会の人たちに対して「すべては、あなた方を造り上げるためなのです」(19)と言っています。この「造り上げる」という言葉は「家を建てる」という言葉に由来し、「徳を高める」とか「向上する」とかいう意味があります。すなわち神様の方に向かうことであり、そのことが人を造り上げることになるのです。パウロのすべての目的は、ここに集中します。パウロが自分の使徒としての資格について、また人からどう評価されているかについて、強いこだわりを持っています。パウロを批判して、その信仰について反対する人たちを相手にしながら、パウロは自分の賛成者を何とか説得しようと「愚か者になって」(11)語調を強めます。あたかも「自己推薦」(19)しているように聞こえなくもありません。反対者のことを決して軽く考えていないのです。「そう言う人とはつき合うな」とさえ言っています。それは人を造り上げるため、どうでもいいことでは決してなかったからです。自分だけ正しければ、黙って言われるままにしておいても何も傷つかなかったでしょう。しかしそのことで他の人がつまずくとすれば、どうでもよいことではなく、あえて「愚か者に」なったのです。
コリントの教会が、主イエス・キリストの体として建てられることのために心血を注ぐのです。神は若いエレミヤに「見よ、今日あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために」(エレミヤ1:10)と告げていますが、パウロもまた主からの使命を受けて同じ信仰に立たされているのでした。「あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために」。(コリントⅡ10:8,13:10)
パウロはまた、使徒としての働きを建築士にたとえていいます。「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えた」(コリントⅠ10:3)。パウロが「人を造り上げる」というとき、それはキリストを土台としています。繁栄して高ぶっているコリントの教会の人たちには「知識は人の徳を高める」という考えが支配していたようです。それに対してパウロは「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める」(8:1) と説きます。土台が据えられ、その上に家が建てられるのですが、その家は多くの部分によって造り上げられます。それぞれの部分は固有の役割を担いつつ。お互いがしっかりと組み合わされていなければなりません。そこで初めて個性が生かされます。「人を造り上げる」のは、土台をキリストに据え、その役割に用いられるようにされること、そこに共育である「人づくり」がおきるでしょう。