2012年5月27日
「弱さの中に働く神の力」
榎本栄次 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙二 12章 1-10節
ペンテコステおめでとうございます。復活の主に出会った後、弟子たちは約束の天からのおくりものである聖霊を待ち「ひたすら祈りをしていた」のでした。そこに聖霊が下り弟子たちの宣教活動が始まりました。この出来事が聖霊降臨(ペンテコステ)であり、ここから教会が誕生したと言えます。「弱さの中に働く神の力」こそがペンテコステです。
信仰者はどのようなときにも希望と誇りを捨ててはなりません。しかしその希望であり、誇るものがなくなったらどうすればいいのでしょうか。自分の中に希望が持てなくなったとき、誇るべきものを失ってしまったとき、信仰者として失格者になったとき、どうするのでしょうか。主イエス亡き後の弟子たちはまさにそのような状態でした。その時こそ神との交渉が始まります。向こう側から来る力に望みをおき、それを待つ備えをするのです。それが祈りです。そこから本当の希望と誇りが生まれてきます。「力は弱いところにこそ十分に働く」
パウロはかつてはキリスト教徒を迫害する側の人でしたが、ダマスコ途上でイエスの幻と出会い、大転換をしたのです。一時目が見えなくなりましたが、信仰の人アナニヤの導きで「目から鱗のようなものが落ち」見えるようになりました。
この体験を「第3の天にまで引き上げられた」(12:2)と表現しています。これは彼の信仰の基礎になりました。どんなに人から非難されてもこの体験は揺らぐことない確信となりました。彼はそのことを誇りながらも、過大評価されることを避けて、むしろ弱さを誇ります。
彼には大きなとげがありました。「思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました」(7)。パウロにとってのとげは具体的にどんなものであったかは、分かりません。らい病にかかっていたという説、てんかんであったという説、伝道上の困難、いろいろ推測がありますが、そのことが彼の宣教活動にとって大きなブレーキになったことだけは確かなようです。パウロはそのとげが取り除かれるようにと3度、主に祈りました。「これさえなければ」「それでもキリストの弟子か」と思われるような欠陥であったのでしょう。まさに希望も誇りも失うような事柄であったようです。何とかこれを取り除いてくださいと、熱心に祈ったことだと思います。しかしこの祈りは聞かれませんでした。神は「わたしの恵みはあなたに十分である」と言われました。その弱さによって主の恵みが不完全になるのではない。それがなければ恵みが満たされなかったのです。続けて神は、「力(デュナミス)は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。(9)ですからパウロは「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と奨めています。「弱いときにこそ強いからです」
どうしようもない自分に絶望して神に祈ります。上からの力「父が約束されたものをあなたがたに送る」(使徒24:39)と言われた言葉にとどまり待つのです。言い換えると、私たちはその暗闇に出会わなければ本当の力を得ることができません。十字架は絶望の象徴ですが、十字架によって私の命が買い戻されたとするならば、私たちはその十字架を何より大切なものとし、大きな誇りとするものです。
今私は立ったままで「弱いときにこそ強い」と言っているのでしょうか。もしそうであるなら何も知らない者かも知れません。やせ我慢ではなく、主に目を注ぎましょう。何に頼ったらいいのか分からない今日、ただ「主よ、憐れみたまえ」としか言う言葉がない。そこで向こうからの助けを信じて待つゆえに強いのです。主により頼みましょう。どんな厳しい状況に置かれていたとしても、そうであるがゆえに人を恐れず、神を畏れつつ助けを求め信じて祈り待ちましょう。成すべきことは何でしょうか。主よ、お示し下さいと祈りましょう。その時に主は大きなことをしてくださいます。私たちが主を支えるのではない。主の助けを求めるのです。「弱さの中に働く神の力」に頼りましょう。その時にこそ私たちは強いのです。