2012年5月6日
「神がご存知です」
榎本栄次 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 11章 7-15節
「人は自分に似せて神を造る」と言う。自分の理解できる手の中に、自分の希望や理想を像として刻み、それを神として拝むのです。しかしそれはどんなにきらびやかで熱心であったとしても本当の神ではない。それは偶像であり、それを拝むことはことを偶像礼拝と言います。また人のことを「上を向くもの」(アンスローポス)と言います。このことを信仰的に解釈すると「上」は神を指し、神に向かう、すなわち「神に似せて造られたもの」ということです。それは固定された像ではなく、生きて、変化し、出会う人格です。人は神の方に向かうときに本来の自分に出会うものです。パウロはそれを「高められる」(7)と表現しています。自分に目当てがあるのではなく、神に向かうのです。
パウロは「誇り」という言葉を繰り返します。パウロが誇るのは神において誇るのです。キリスト者の誇りは、イエス・キリストにあり、誇る者は主を誇るのです。パウロは、はじめてコリントに行った時、ここに教会を立てましたが、信徒たちに迷惑をかけないようにとの思いからアキラという人の家に身を寄せ、テント作りの仕事をして生活費を得ました。(18:1-5)
その思いやりが「彼は使徒の資格がないからそうせざるを得ないのだ」といった非難を受けました。一方、パウロの活動のために「マケドニアから来た兄弟たちがわたしの必要を満たしてくれた」(9)とあるように、人々に生活のための支援を求め、時には「わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなた方に奉仕するための生活費を手に入れた」(8)こともあったのでしょう。この「かすめ取る」という言葉は「裸にする、略奪する」「泥棒」という意味があります。ある人たちからは一切支援を受けず、ある人たちからは「かすめ取る」ようにして支援を得たのです。この二面性に生きた宣教者の姿がリアルに浮かびます。
世光教会が初めて桃山町泰長老に土地建物を購入するとき、学生だった榎本保郎は淡路の実家から金を「かすめ取って」行ったことでした。また、まだ教会員でもない後宮俊夫氏から大金をもらった(本人は貸したつもり)というようなことがありました。伝道者がその経済生活の面から 苦労することはしばしばです。時には泥棒のようになることもあるでしょう。そのことで人からけなされもしますし、誇りも消え、しかし神に向かって高められもします。
パウロは、ある時は人に頼らず、ある時は人を頼りにしています。この自分を「誇り」とします。「あなたがたを高められるため」です。「神がご存じです」と言うとき、一切を神に委ね、今見えることにしっかりと目を注いで対応するのです。そこには様々な対応や言葉が発見され、また求められます。決まった教義や正解ではない、現実の言葉があるばかりです。
原始教会の時代、マタイやパウロやヨハネが聖書を読もうとしたとき、彼らの読み方は、聖書やテキストの研究を第一とはせず、むしろ彼らの時代と環境の中で具体的出来事を第一として、そこから出発して聖書を読んだのです。
「そこでは、聖書の言葉が最初にそれ自体として究められ、次いで現代の人間に伝えられるのではなく、現代の具体的状況の中にある聖書的現実を鋭く感知し、洞察し、それらを究めつつ、聖書の根源的使信に立ちかえり、聖書と対話させることが必要である」(ティーリケ)
「釈義→説教」という伝統的方式さえ厳密に守っていれば宣教の課題は立派に果たせたと考えるのではなく、現実から学ばなければいけないのです。自分が、あるいは聖書解釈からではない。現実にそこにいる人が問題に振り回される。そこからの言葉を聞くのです。しかしそれは決して聖書や祈りをいい加減にして、現実の方が大切だというのではありません。そこでこそ聖書はさらに深く広く学ばならない息吹(聖霊)があります。「神がご存じです」大胆に出て行きましょう。