2012年4月22日
「キリストに対する真心」
榎本栄次 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 11章 1-6節
私たちの働きは一人ひとり異なっていますが、ひとりでは大したことでないことも、互いに組み合わされたものとして、とても大切な役割を持っています。大きくは神のみ業への参与です。
使徒パウロは、キリストへの信仰を男女の婚約にたとえて、「キリストに対する真心」と言っています。それは一人の人との約束が他の人への心変わりを許さないことを意味します。心変わりとはキリストへの信仰を離れて「違った霊」「違った福音」(11:4)に逸れることです。個人の業績や派閥に終始するようになることです。
パウロは自分の業績や身分を誇ることを「愚かなこと」としています。ところが今日与えられたところでは「わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが」と言っています。この世的な誇りは愚かなことと思っているけれども、人々がそこに関心がある以上、それがいかにくだらないことであるかと知りながら、彼らの土俵に上がって相撲を取ることを一時的に許して欲しいと言っているのです。
ある時、三浦綾子さんから「先生、有名になりなさいよ。いい働きしてチャンスをつかみなさいよ。それを逃してはいけませんよ」と言われたことがあります。少し意外でした。よく考えてみると、彼女の趣旨は有名になることや、人から誉められたり、お金持ちになったりすることではなくて、神様のことを伝えるためなのです。神様を信じて救われる人を一人でも多くつくり出すのが牧師の仕事です。そのために有名になることはとても重要なことで、この世の名声はどうでもいいことでは決してないのです。キリストの証人になるためには、有名にならなることも大きな武器になるのです。とても俗っぽく聞こえますが、彼女の小説を読んでクリスチャンになった人は多い。この積極性が信仰に求められるのです。この世の誇りは愚かしいことですけれど、人を導くためには有効な力です。三浦さんの目的は、有名になることにあるのではなく「キリストを伝える」ことにあったのです。どちらかと言えば、出世することやこの世の地位などを小馬鹿にして、そのようなことに熱心になることを罪のように思っていた私ですが、それは自分の出世欲の裏返しでしかなかったのかも知れません。目的をキリストという一点に絞ること、それが「キリストに対する真心」です。
皆さんはどうして教会に毎週こうして来られるのでしょうか。私も高等学校一年生の時から日曜礼拝だけは休んだことはありません。何代にも渡ってそうやっている人もいます。なぜでしょうか。それは「キリストに対する真心」です。そのために損もしたことでしょう。しかしキリストにつながる大きな恵みをいただいているのです。ある方は「奉仕がとても楽しいのです」と言っていました。それが最高の喜びなのだと。人は他者のために生き、仕えるとき初めて自分を取り戻すのだと思います。
「気が狂ったように言う」。キリストに仕える者であることによって自分を得た。そこにこそ自分がいた、それはだれも奪うことはできないという喜びです。彼ら以上に「キリストの僕なのである」。数え切れないほどの苦しみをキリストのゆえに受けながら、それが彼の喜びでもあり、誇りにもなっていました。フィリピ1:29には「あなたがにたはキリストを信じることだけではなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」とあります。
要するにパウロにとって、一番の関心事はキリストの福音に人々を導くことでした。キリストによって和解が与えられた者は、自分を誇る必要はありません。「愚か者のようになる」のは、自己を完成させるためではなく「あなた方を高めるため」(7)でした。
ベテスダ野家の働きは、私たちにとって大きな誇りです。そこで働く人たちは神の宣教者、天使たちです。