今週の説教要旨

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2012年4月15日

「誇る者は主を誇れ」

榎本栄次 牧師

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 10章 12-18節

                            

 イエスの母マリアはその賛歌で「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」(ルカ1:48)と言っています。「身分の低いこのはしためにも、目を留めてくださったからです」。これがマリアの大きな誇りでした。私たちは誇りを持って生きています。どんなに痴呆が進んでも誇りだけは無くならないのが私たちです。誇りこそが生きる力を与えてくれます。俄然元気が出るものです。

 使徒パウロは「誇る者は主を誇れ」と言いました。誇ることが罪のように思いがちですが、誇りは人に欠かせません。問題は、何を根拠に誇るかです。キリスト者は自分のことを誇ってはいけないのではありません。誇らなくても済むのです。キリストの愛によって生かされているというのがキリスト者の誇りだからです。それは誰からも奪われることがない誇りです。主は暗闇に大きな光となって下さった。自信が無くてびくびくしているときにも、「大丈夫だよ」と声をかけてくださる方がいます。それは闇に輝く光です。その大きな光の下では小さな闇や光は問題にならなくなるでしょう。その光から離れて「誇るな」と言っても、それは道徳であり返って大きな闇に入るだけです。

 使徒パウロは、宣教に当たり、彼のことを推薦してくれる人がいませんでした。逆に「あれはとんでもないやつ」となじる人が絶えませんでした。彼の行く先々についてきてあらぬ噂をばらまくのでした。そんな時に彼は、自己推薦もできない、人々は疑いのまなざしで見、引いていくのが分かるのです。そこでパウロは、自分の業績を誇らず「誇る者は主を誇れ」と勧め、彼自身そうあろうとするのでした。彼は主の推薦状を根拠とし、頼りにしました。

 学生時代、ある友人が私のことを「真空管がひとつない」と表現しました。うまいこと言っていると思います。皆さんは物覚えはいい方ですか、悪い方ですか。私は物覚えが極端に悪いのです。そして物忘れが激しいです。今聞いたことでも、こっちを向いてあっちを向いたらもう忘れているのです。この事で随分損をしました。年をとったらそうなると言いますが、私は小さいときからなのです。ここではとても言えないような欠点もあります。私は一生懸命で、決していい加減にしようとは思っていません。それでも外から見ると不真面目に見えるのでしょう。そんな人間が牧師をしていていいのか。保育園の園長などやっていていいのか、教会も保育園もめちゃくちゃになってしまうのではないかと心配されるかも知れません。だから私も心配です。これまで、この人に頼っていたらだめだと分かるから、教会員がしっかりしてくれていたり、みなさんが頑張ってくれるから案外うまくやってこれたのです。不思議なことです。こんな事があってはならないのですが事実だから仕方ありません。

 これは神さまがなさっているのです。「神は地位ある者を無力な者にするために世の無に等しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それはだれ一人、主の前に誇ることのないためです。」(コリント一 1:28,29)「小柄で頭がはげ、足が曲がり、健康そうで、しかめ顔をし、鼻がでかく、しかし慈愛に満ちたパウロ・・・時には人間のように見えたが、ある時には天使のような顔を持っていた」(パウロとアクラの手紙3章)多くの人は外見的なことや人脈のことでほめ合ったり、自己推薦したり、蔑んだりしていました。しかしパウロはその様な価値観には立ちません。彼は「限度を超えては誇らず・・・あなた方の所に行ったということを誇る」(13)と言います。これはパウロがコリントの教会を建てたと言うことですが、彼はそれをただ「行った」と表現しています。私だったら「あの教会は私が立てた」というかも知れません。彼がコリントの教会を建てたことは大きな誇りでした。しかし自慢話や誇っていっているのではありません。神さまがなさったことを紹介しているのです。パウロにとっては、コリントの教会を建てたことは、神さまが私をここに遣わしてくださったと言うことが何にも増して大きな誇りであったのです。「誇る者は主を誇れ」(エレミヤ9:24)を引用し、自分たちは植えたり水をやったりしたのであって、育ててくださったのは主である。それこそ誇りにすべきことであると言うのです。外見や上辺で人を決めつけたり、はかったりするのではなく、主が共にいますことに目を向けることこそ肝要です。

 イースターで主の復活を祝うのですが、それはこんな私を新しく生かしてくださったという大きな喜びと勝利を祝うのです。それが私の誇りです。そのために私たちは何でもするのです。

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。