2012年4月8日
「権威」
榎本栄次 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 10章 1-11節
イースターおめでとうございます。長かった冬が明け、百花繚乱、森羅万象が主の復活を声高に賛美しているようです。
主イエスは十字架に死に、3日目に死人の中からよみがえられた。これはキリスト教信仰の根幹であります。しかしこれは私たちの常識をひっくり返す説明のつかない出来事です。朝早くマグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行きました。すると墓の中にはイエスの死体はなく、天使が現れて「恐れることはない。十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。・・・あなた方より先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」と知らせました。婦人たちは驚きながらも大いに喜びながら弟子たちにこの事を知らせたのでした。イエス様ご自身が婦人たちに現れて「恐れることはない。行って、私の兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と言われました。(マタイ28)「ガリラヤ」とは、弟子たちのふるさとであり、彼らの現実社会でした。エルサレムから離れた生活の場です。主はそのガリラヤで待つようにといわれました。これは今日の私たちの信仰生活にも語られている言葉だと思います。主は私たちの生活の場(ガリラヤ)に復活されたのです。
主の御復活は、天上の出来事ではなく、この私の身に起きた救いの出来事です。死んでいた私の命が主によって命へと変えられことです。キリスト者の誇りと権威はここにこそ立脚します。
使徒パウロは、コリントの教会の人々に対して「厳しい手紙」を送りました。今日のテキストはその一部です。教会の中に分派を生み、パウロのことをいろいろと非難し、キリストの教会をその本筋から離れさせ、上辺ばかりで人を見るように人々を導く人々に対しては「敵」と呼び、彼らとは妥協のないことを宣言します。パウロは、一見弱々しく見えますが、神が「わたしたちに授けてくださった権威」に立ち、どんな圧力にも倒れません。大きな力を示しています。外見には愚か者と見え、弱々しく、つまらない話をする者と見られていたとしても、不思議なほど動じないのです。「肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません」(3)から。人々から弱く見られているけれども実は「神に由来する力であって要塞も破壊するに足る」力がありました。
自分に自信を無くなるとき、人から責められたり、悪く言われないかとびくびくすることがあります。今の苦境を人のせいにしたくても自分の欠点が大きく見えて、何も言えなくなってしまうのです。そんな時は辛いです。恐れていて、ほかが見えなくなってしまいます。
主が十字架につかれたとき、弟子たちは、恐怖の中におかれ不安のどん底でした。そんな彼らに復活の主は「恐れるな」と呼びかけられるのでした。主の復活は、罪に死ぬべき私たちが贖われたことです。死んだような私の命が生き返らされたことです。失望と、自信の無さでおびえている者が、「恐れることはない」との許しの言葉で新しい場にたたされるのです。
使徒パウロは、生前のイエスには出会っていません。イエスを信じるクリスチャンたちを捕らえて極に送り込むために、エルサレムに向かっていました。そのダマスコ途上で幻の主に出会って改心したのです。パウロは、おとなしく、弱々しく、話はつまらない者と見なされていました。しかしその無力に見える姿の中に、強力な神の力がはたらいていました。なぜなら、対立する敵の見えないところで、彼は大きな神の使命に服従していたからです。神の力は、弱さと言うところに働いてくださるのです。主の十字架は弱さの象徴です。そこに大きな神の力が働くのです。
自信がなくなったとき、そこがチャンスです。主に祈りましょう。主が私たちのところ(ガリラヤ)に来て、共に住み、行き巡ってくださり、私たちの神となってくださいます。その自信は誰にも倒されない権威です。自分で自信を持とうとしても空元気になり、強がりもかえって滑稽になります。権威を無くし、よけいにむなしい格好をつけ上辺を飾って権威をつけようとします。人が信じられなくなり、形式ばかりを作ろうとするのです。国家の権威についても同様です。「バカにされないように」という権威主義が人を縛ります。一致をさせようとしますが、かえって権威を失うのです。
権威は主から来るのです。人にバカにされても、いじめられても、主が授けてくださった権威があります。そこに依り頼むことが復活信仰です。