今週の説教要旨

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2012年4月1日

「種を蒔く人」

榎本栄次 牧師

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ9章 6-15節


  私たちは使徒信条において「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」と告白するように、私たちの信仰は個人のことであると共に、共同体の中で捉えられるものです。聖書の信仰は、イスラエルの共同体の中で育てられ、神の民としてキリストの下に呼び集められた教会(エクレシア)で守られてきました。そして私たちはキリストの体なる教会のこの礼拝の中で育まれ、成長させられていくのです。それは個々バラバラにあるのではなく、ひとつの体のようにキリストの命を持って働くものです。

 パウロは、コリントの教会の人々にエルサレムの教会への献金を訴えて、互いが福音に与る絆となることを説いています。その業を「種を蒔く人」にたとえています。そこから4つのことを学びたいと思います。

 第一に「不承不承ではなく、・・・喜んで与える」ことです。信仰は受けることでもあり、また与えることによってさらに大きな喜びへと導かれます。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」(6)と諭しています。献げることができるのはなんと幸いなことでしょうか。自分のものだと思うからけちになるのです。神さまからの預かりものだと思いなさい。「もし許されることであるならばどうぞこの私を用いて下さい」と言えることは幸いです。幾倍にもなって返ってきますから。貧しい私の経験からからもそれは確かです。私の関わったところでは沢山の収穫があり、今も実を結び続けています。それを思うと、笑いが止まりません。

 第二に、種を蒔くことは他を潤すのです。この業は、「聖なる者たちの不足していることを補う」(12)とあります。キリストが十字架にかかる前に、一人の女性が主の頭にナルドの香油を注ぎかけました。高価な油を無駄にしたと弟子たちは非難しましたが、主はこの事を何よりも喜ばれたのです。(マルコ14:3)弱い一人の女性の思いが主を慰めたのでした。一人の少年が差し出した5つのパンと2匹の魚が5,000人を飽かせたのです。(ヨハネ6:1以下)困難を共有できる連帯は主の喜ばれることです。自分だけ、自分の教会だけ栄えればいいと言う小さな了見は主の教会にふさわしくありません。主の教会を預かる者として、自分たちの教会が盛んになるように努力しなければなりません。そのためにあらゆる事を務めましょう。しかしそれは外に向かったものであるべきです。自分の倉にだけ貯めておこうとすると、命がなくなります。得ているものはすべて主のものだからです。

 第三に種を蒔くことは、自分の命を捨てることです。主は言われます。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)主が私たちのために命を捨ててくださった。農家に育った私は父から「どんなにお腹が空いても種籾は食べたらだめだよ」と教えられました。教会で、教区への負担金が重く感じたことがありましたが、それが種籾だと思ったものです。主は必ず私たちの思いを大きなものに変えて下さいます。その主を信じて自分を捨てることです。そこに大きな喜びがあります。

 最後に種には命があると言うことです。その命を蒔くのです。決して無駄ではありません。主はベツレヘムの馬小屋でお生まれになった。どこよりも貧しいところです。しかしそこに主がおられるから世界の中で最も祝福されたところとなったのです。この種は、命の種であることです。キリストの名においてささげられたものは祝福されて多くの実を結びます。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。馬小屋が聖なるところではない。主がおられるから聖なるところなのです。主の体である教会にささげることはそこに大きな命があるのです。「満ちあふれる」はストア派の哲学者が好んで用いた言葉です。主の業には神の命が満ちているのです。種を蒔く人になりましょう。

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。