2012年2月26日
「神の民となる」
榎本栄次 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 6章14-18節
「信仰はヒューマニズムではない。人が中心ではなく神が中心になること。」このことはとても重要な基本線です。でありながらまた、同じように「信仰は、私とあなたというヒューマンの関係を離れては成り立たない」という事実も重要です。
私たちは自分をどのように捉えているでしょうか。「私は神のようにすばらしい存在」と捉えているでしょうか。それとも「私は土の塵のようにつまらない存在」と理解しているでしょうか。創世記には「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1:27)とあり、また「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」(同2:7)とあります。ここに二つの人間観が示されています。一つは「神の似姿」としての人間であり、もう一つは「土の塵」としてのそれです。さて私たちはどちらの見方をするのでしょうか。
使徒パウロはコリントの人たちのことを「神の神殿」とし「神の民となる」と言っています。そこで「信仰のない人々と一緒に不釣り合いなに軛つながれてはなりません」(14)と勧めています。自分たちと信仰を持っていない人とをはっきりと区別して「正義と不法」「光と闇」「キリストとべリアル(価値なき者)」「信仰と不信仰」「神の神殿と偶像」のように相容れない対立を示しています。
しかし私たちの周りを見渡してみると、また自分自身のことを考えてみますと、こちらが闇であり、不法であり、べリアルではないか、信仰のない人たちの方がずっと優れてはいないか、はじめから負けているような気がします。
さてここで、パウロの言う「神の民」とはどのような人のことでしょうか。異邦人と比べてクリスチャンの方が優れて清い人なのですか。正しい人が選ばれたのでしょうか。あるいは、神の裁きのふるいにかけられて残った人たちなのでしょうか。そうではない。ただキリストの憐れみにより選ばれているのです。「このような宝を土の器に納めています」(4:7)とあるように、一方的に神の力によるのです。それを混同してはいけません。それは決して相容れないことなのです。
土の塵が頑張って人になるのではありません。そこに神の息がかけられて人になるのです。その人がどんなに優れていても、「私はパウロにつく」「私はアポロに」などと言って争っている間は「ただの人にすぎないではありませんか」(コリントⅠ3:3)。土の器にすぎない者が、「神の神殿」とされ「神の民となる」のは、この自分がイエス・キリストにより救い出されたことによるのです。
肉の私、土の塵でしかないこの私は、何の意味もない存在なのでしょうか。決してそうではない。主イエスを十字架にかけるほど神様はこの私を愛しておられます。そして私たちはこの世に生かされています。この世の中から逃げ出すのではありません。この世の中に入るのです。キリストと共に。その旅は荒れ野を行くように厳しい道のりです。しかしそこにはキリストの宝が与えられています。神の息である聖霊が働いてくださいます。それをいただいてこの世の人々の中に入り、この世の人々と共に生きるのです。そこで神の民となり、神様が私の神様になってくださるのです。そこに真に人となり、自分を回復する恵みの園が開かれているのです。
教会の可能性はどこにあるのでしょうか。若い人がいない。経済が困窮している。よい指導者がいない。宗教心がない。もっと人々を引きつけるカリスマが求められている。若者が来るプログラムが必要。経済的支援ができる有力者が欲しい。そうかも知れません。しかしそれでは「ただの人」の集まりにすぎないでしょう。人気が去り、指導者がいなくなり、甘い汁を吸わしてくれる人がいなくなったら消えていくしかありません。雪国の大雪のように春になったら消えてしまいます。むしろ私たちはそれらと決別しなければなりません。偶像の民から神の民になるのです。そこでこそ、この世の人々から地の塩世の光として尊ばれるのです。