2012年2月19日
「今は何どきか」
榎本栄次 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 6章1-10節
皆さんは今、どのような時を過ごされていますか。明るく幸せな時ですか。それとも暗く寒い夜でしょうか。人にとって今をどう捉えるかという事は大変重要なことです。それは自分の人生をどう捉えるかでもあります。紀元前540年頃預言者イザヤは「見張りの者よ、今は何どきか、見張りの者よ、今は夜の何どきか」と聞いています。(イザヤ21:11)
アッシリヤ帝国の迫害に脅かされて、いつこの恐怖がとけるのかという叫びです。暗くて悲しい現実を前に、この暗闇はいつ終わるのだろうかという問いです。このように叫びたくなることがあります。もうどんなに叫んでも夜明けなど来ないという悲しいときもあるでしょう。
パウロは、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(2)と言っています。それはキリストにあって神との和解を得た今、全てが新しくされた今だからなのです。人や状況がどうであれ、神によって救いに入れられた今であるから「恵みの時」なのです。今はどういう時かというのは、それが何につながるかということで理解されます。どれだけうまいものを食ったか、何もせずにどれほど楽に暮らしたか、財産をどれだけ残したかというようなことは、昨日うまいものを食ったというのに似て過ぎてしまえば空しいことです。今の時代はぶつ切りの文明ばかりで、文化がないと言われます。つながりがないぶつ切りの時は絶望です。
コリントⅡ,6章には、神との和解に入れられた者がどのように今を捉え、どのように生きるかが示されています。和解すると言うことは分裂していた関係がつながって平安になる(エイレーネ)と言うことです。「神の協力者として」私たちの今が、神の永遠とつなげられたのです。だから私たちの働きは、自分一人のものではなく、神との和解を得た者として神の宣教の一端を担うのです。それが救いであり喜びです。
今は何どきですか、この問いに対して私たちはパウロと共に「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と言えるのです。この「今」という時について、それはいつのことでしょうか。パウロがコリントの人たちに手紙を書いているこの時でしょうか。もちろんそうでもあるでしょうが、同時に、この地上の時、今と未来につながる歴史というように考えるべきでしょう。
時というのは神の時(カイロス)です。コヘレト3章では、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれるに時があり、死ぬに時がある。・・・」いろいろな時があって、それぞれが神とつながって無くてはならない時なのです。
キリストを通して神との和解に入れられた者には「和解のために奉仕する任務」が与えられています。和解ということは仲直りのことです。仲直りは相手の出方を待っていたのでは始まりません。自分の方からまず許しを求めることです。これは大変勇気のいることです。キリストの十字架は神の側から和解を求められたということです。私たちが和解できないのは自分の利益を基本に置いており、損したりバカにされたりしたくないからではないでしょうか。神さまがまず、私のために大損をしてくださったということに、目を注ぐべきです。神の歴史、永遠から今を見ることです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(テサロニケⅡ,5:16-18)ともありますが、見えるものにのみ目を注いでいるならば、悲しいときには喜べません。いつも、たえず、どんなこともというのは神の恵みを通してそれらを見なさいと言うことです。神の恵みを通して見るときにどのような苦しいことも「恵みの時、救いの日」であることに気づかされるのです。
パウロは神の僕として、あらゆる事に耐えながら主の前に正しい道を求めています。キリストに許されたが故に可能なる永遠の喜びです。「苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉」を返すことができるのです。主につながれた者の恵みです。これは決して自己推薦ではなく「神の力によってそうしています」(7)。「栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも好評を博するときもそうしているのです。・・・」(8)
今はキリストにあって神さまとの和解の時です。和解の務めを担い合いましょう。