2012年2月12日
「神との和解」
榎本栄次 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章16-21節
信仰に招かれることは、神との和解に招かれて入ることです。そこには新しい世界が開かれています。神との和解はまたこの世の肉なる思いとの決別をも意味します。
エレミヤは言います。「ユダヤに知らせよ。エルサレムに告げて言え。国中に角笛を吹き鳴らし、大声で叫べ。そして言え。『集まって、城塞に逃れよう。シオンに向かって旗を揚げよ。避難せよ。足を止めるな』と。私は北から災いを 大いなる破壊をもたらす」(エレミヤ4:5,6)エレミヤのこの言葉を、今日私たちはどう聞くのでしょうか。エレミヤは北から災いが押し寄せてくるから急いで避難しろと叫び、続けます。「その日が来れば、王も高官も勇気を失い、祭司は心挫け、預言者はひるみ『ああ、主なる神よ。まことにあなたはこの民とエルサレムを欺かれました』」(9,10)と言うようになる。そして危機の時にもかかわらず、「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療し、平和がないのに、『平和、平和』と言う」(6:14)。だからエレミヤは「早く逃げなさい」と叫ぶのです。しかし多くの預言者や王たちはいっこうに耳を貸しません。神さまはなぜ、このようなことをされるのでしょうか、と問うばかりです。今日私たちはこのエレミヤの言葉をどう聞き、そして私たちは何から逃げるのでしょうか。「城塞に逃れよ」という城塞はどこでしょうか。
使徒パウロは、「神と和解をさせていただきなさい」(コリントⅡ5:20)と勧めています。キリストにより、神は私たちに和解を用意してくださいました。どのような罪人であっても分け隔てなく和解してくださる、そのキリストの愛の城塞に逃げることを勧めます。「今後誰をも肉に従って知ろうとはしません」(16)そこでは「キリストに結ばれる人は誰でも、新しく創造された者」(18)だからです。
今日私たちは、何を頼りにしているでしょうか。富、健康、知識、能力、称賛、平和ということに安住しようとしています。そこを目指して進み、そこには永遠があると信じて努力し、永住し、そのための忍耐であり、そのための信心であろうとします。そこにある肉なるものにこそ永遠があると信じて、そこにとどまろうとするのです。私は今エレミヤの言葉を「そこから逃げろ。足を止めるな」というように聞きたいと思います。
東日本大震災の状況を想起します。あの津波が押し寄せてきているとき、高いところにいる人が「逃げろ、逃げろ」と必死で叫んでいるのに、それを聞いても無視して、のんびりと談笑したり、家に帰ったりしている様子をテレビで見ながら、何と腹立たしいことかと思います。「避難しろ。足を止めるな」と叫ぶエレミヤの言葉が重なります。富を離れ、この世の喜びを捨てて神との和解に逃れよと勧めるのです。どんなに危機が来ても、今の富はなくしたくない、「まさか」と思いたい。しかし、今こそ大変な時なのではないでしょうか。神の和解の城塞に逃げ込むのです。(注:詩編46)
キリスト教信仰は、和解の信仰です。神は私たちにキリストを通して和解を申し出られました。その救いに入るのは、ただ神さまの憐れみによるのです。キリストの十字架によって神との和解に招かれます。「私たちをこのようにふさわしい者としてくださったのは神です。」(5)とある通りです。どんなにしていても私たちの現実は「減価」していきます。そこにしがみついていると、津波に遭うように押し流されてしまいます。その減価を神はキリストによって「減価償却」してくださったのです。すなわち贖ってくださり、負債をゼロにしてくださいました。
私たちは「富」や「成功」を神のように追い求め、いつの間にかその奴隷になっていました。そして、隣の人を見失い、傷つけ合い、差別し合っているのではないでしょうか。子供たちもそのかけ声にロボットのようにされて、自分を失っている。エレミヤはそこから逃げろと「変人」と言われながら叫びます。私たちは十字架による和解をいただき、そこからキリストの使者の務めとして「和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」。