2012年2月5日
「キリストの愛」
榎本栄次 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章11-15節
「神はキリストなり」は、私たち一人ひとりに働きかけてくださる神の御意志です。使徒パウロは、「キリストの愛が私たちを駆り立てているからです」(14)と述べて、罪人の自分に出会ってくださったキリストの愛を語り、それが彼を支えるすべてであり、端的に信仰の根拠であることを記しています。彼がコリントの教会における敵対者を念頭に置きつつ、苦しみの中で彼らに対して毅然と立ち向かえたのは何であったのでしょうか。想像を超えた困難にもかかわらず、彼をそこで支えたものは何であったかというと、まさしくキリストの愛でありました。誰かの推薦状でもなければ同情してくれる人でもない、自分の肩書きでも、自分の力でもありませんでした。パウロが説き続けなければならなかったことは、キリストの愛に捉えられているということ、ただこの一事でした。そして私たち今日の信仰者が聞かなければならない唯一のことでもあります。
パウロは、私たちの体を建物にたとえて、「地上の住処である幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、私たちは知っています」(1)と言います。建物は減価償却します。1億円で建てた建物が50年持つとすると、何もしなくても年間200万円ずつ減価償却していることになります。ですから毎年200万円ずつ積み立てていかなければなりません。そうしないと、それだけ赤字が積み重なることになります。積み立てていると、50年経った時、建物は壊れて使用不能になっていますが、代わりに1億円たまっていますからそれで建物を建てられます。これを減価償却費といいます。私たちの人生も同じで何もしなくても減価償却しています。
そこでパウロが言います。キリストの愛に心を向けなさいと。「一人の人がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人が死んだことになります」(14)。それによって、すべての人が「人の手で造られたものでない天にある永遠の住処」(1)が備えられていることになります。それは「御子を信じる者が一人も滅びないために」(ヨハネ3:16)です。外なる人は滅びても、内なる人は日々新たにされるのです。「神は、その保障として霊を与えてくださった」(5)
すなわちキリストは私たちのために、減価償却費となってくださったのです。自分たちは年を追うごとに人生を消耗し、残りが少なくなっています。やがてそれは死ということで例外なしにすべてを失ってしまいます。しかし今や、その無くなった分だけ、キリストが補ってくださいました。「罪の増し加わるところには、恵みも義によって支配しつつ、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」(ローマ5:20,21)とある通りです。
高齢者と言われる65歳以上の人口が現在25%ですが、40年後には40%になるそうです。そこで減価償却費を取っているかと考えるとどうでしょうか。いつまでも健康で幸せに生きていられると思っていないでしょうか。しかし現実は、高齢化が進むことによって、私たちの持っているものは日々削られていきます。足腰が弱り、愚痴が多くなり、90歳を過ぎると50%以上の人がアルツハイマーにかかるそうです。ここで、パウロはキリストの愛を叫ぶのです。主イエス・キリストの贖いによって新しくされます。この無くなった分にも増して大きな恵みがしっかりと蓄えられているのですから。それがキリストの愛です。
「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言をする賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を移すほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい」(コリントⅠ13:1)。ここで言われている「愛(アガペー)」とはこのキリストの愛にほかなりません。
さて、そこで残されている人生を「自分のために生きるのではなく、自分のために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」と勧めています。パウロはこのキリストの愛の故に、「だから、わたしは落胆しません」(4:14)と宣言します。私たちはこの愛にこそ目を向けつつ、与えられた人生を生きる者でありたいと願います。