2012年1月29日
「ふさわしい者」
榎本栄次 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章1-10節
わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(5:18)というパウロは、現実を見ないのではなく、やがて来る約束を見てその目で現実を見るということです。キリスト教信仰を誤解していないでしょうか。信仰は精神的な世界にのみ限られるべきことであり、この世の具体的なことについては関係させないようにしていないでしょうか。具体的な社会のこととか、仕事のことなどについては、課題や矛盾が大きければ大きいほどそれらはこの世のことであって、信仰とは関係のない世界なのだという誤解です。信仰を精神的な世界にだけ限定すると、合理的に矛盾なく理解できるからです。信仰の世界に具体的な事柄を持ち込むと、矛盾や対立が起きて収拾がつかなくなることが予想されます。そのために信仰に具体的なことを持ち込むことを次元の低いことのように考える神学があります。信仰が相対化されその権威を失うからです。しかし信仰は具体的でなければなりません。たとえそのことによって混乱や矛盾が起きたとしても、それに耐えなければなりません。それが信仰告白です。どんな小さな事柄でも、いや小さなことの中にこそ神の御心を尋ね、具体的に従うのが信仰です。そうでなければ決して大きな神の御業に参与できないでしょう。
具体的なことに取り組むと混乱や矛盾を経験するのは、信仰のせいではなく、自分のせいです。自分の腹の思いを神のものとしようとするから起きるのです。具体的なことを神とすることは偶像礼拝です。神に具体的に聞き、従うのは信仰です。この両者を混同してはいけません。私たちの世界にある精神的なことも具体的なことも、教会内のことも非キリスト者のことも全て神さまのご計画の中にあり、何一つ関係のないものはありません。
私たちの生活は、不安に包まれています。家族のこと、経済のこと、健康のこと、将来のこと、人間関係のことと不安なことは尽きません。その不安を取り除こうとして、悩み苦しむのですが、なかなか目的は果たせません。一つの課題が済めばまた新しいさらに大きな悩みが波のように寄せてきます。こんな悩みが無くなれば教会にも行きましょうと言うかもしれませんが、そこには信仰が生まれません。信仰を持つと、この悩みが無くなるだろうと期待もしますが、そう単純にはいかないのです。もしそうならみんな信仰を持つことでしょう。信仰者にも同じように苦悩はやってきます。信仰はそれを忘れさせてくれるのでもなく、しっかりとそれに向き合う力を与えてくれるのです。神さまに祈り、具体的なものをそうあらしめている神の霊へと導いてくれます。私たちはその見えないものに目を注ぐから、見える事柄にしっかりと向かい、立てるのです。神はその力を与えてくださいます。信仰を持つとこの世の苦難の上に、神の平安を着ることになるのです。その悩みに勝利するのです。私たちは最終的には信仰者もそうでない者も等しく肉体の死を迎えますが、それで全てが消えるのではなく、神の命につつまれるのです。それが救いです。
その救いに入るのは、ただ神さまの憐れみに依るのです。キリストの十字架によって招かれるのです。「私たちをこのようにふさわしい者としてくださったのは神です。」(5)とんでもない者が、最も尊ばれる者とされた。資格のない者がふさわしい者にされた。ここに神さまの不思議があります。使徒パウロは、この地上の住みかを「幕屋」と言い、天にある永遠の住みかを「建物」と言っています。この世での生活は仮の住まいであり、やがて滅びるけれども、キリスト者にとっては神の約束の住みかはしっかりしていて、そこにこそ本当の住まいがあるのです。今仮の住まいに生きながら、天の建物に住むことができる。
この世の悩みに明け暮れて混乱のただ中にあるとき、信仰の話をしたらどうでしょうか。こんな大変なときに余計なことを言うなと叱られるでしょうか。「お前のような者はふさわしくないのだ」と叱られるかも知れません。それは客観的であり正しい判断でしょう。しかしここに大きな現実があります。それはキリストによってこの「ふさわしくない私」が「ふさわしい者」とされたということです。そのことにより、新たな出来事が起きるのです。もう恐れることはありません。
ホセアの妻ゴメルは不倫によってロ・ルハマ(憐れまれない子)とロ・アンミ(わたしの民でない者)を生みました。神はホセアにその妻を再びめとり、子どもたちに「ルハマ」(憐れみの子)「アンミ」(わが民)と名付けなさいと言われました。私たちはキリストにより、新しい契約に入れられたのです。キリストに贖われた者としてもう一度この現実を見ましょう。