2012年1月15日
「土の器」
榎本栄次 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章7-13節
私たちの信仰は、復活信仰とも言われます。それは終末的真理であり、後来るべき希望であると共に、今ここにおける艱難に生きる力となるものです。将来に起こるだけではなく今ここに現実の力となって現れるのです。信仰は観念ではなく力であり、今この時に神の実在を共に生きることです。そこでは自分も周りも神さまを通してみたり考えたりするのです。同じ信仰者に対してもついその外見で判断しがちです。神さまはどう見ておられるかという目で見るときに違ってくるのではないでしょうか。
使徒パウロは、自分の内に満ちあふれているものに驚きながら、それを「この並外れた偉大な力」(7)と言っています。A.B.ノーベルがダイナマイトを発明したとき、それに何という名前をつけようかと考えました。そこで今日のテキストの「この並外れた偉大な力」のデュナミス(力)という言葉からダイナマイトという名前を付けたということです。
パウロは「四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」。(8,9)超人的な力に満たされていました。彼はまたローマ書で「私たちは、これらのすべてのことにおいて、勝ち得て余りがある」(ローマ8:37口語訳)と言っています。どんな苦しいことがあっても、はねのけられる力です。ダイナマイト以上の言葉です。
それではこんな力はパウロの中のどこにあるのでしょうか。彼はそのことで、「私はこのような宝を土の器に納めています」。それは「神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」(7)とも言っています。土というのは命のないものという意味です。その命のないものの中に、復活の主という宝が入ってくださる時に、「並外れた力」を頂くことになります。彼はそのために「見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます」(18)と言います。
この並外れた力(デュナミス)は、自分のものではなく、土の器に持っている宝です。自分は宝ではない。自分は命のない土の器にすぎない。そこに宝を持つときにすばらしいものとされるのです。その宝とはイエス・キリストに他なりません。私たちはその宝を持つことにより、器が何で出来ているかということは大きな問題ではなくなるのです。器が木で出来ているか、鉄で出来ているか、金か土かという器の素材は問題ではありません。そこに宝物が入っているかどうかです。
パウロは「自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」(5)というように、イエス・キリストの十字架と復活に現れた並外れた大きな力にこそ注目すべきです。自分を伝えよう伝えようとしていないでしょうか。人と比較して、どうかということに捉えられていることが多いのではないでしょうか。自分が土の器であることを恥じて、何か特別のものであるかのように見せようとしがちです。しかしそんな無駄なことはしなくてもいい。イエス・キリストが私たちの弱さや罪を背負ってくださったのですから。イエス・キリストの十字架が隠れた力として身に付いているのです。北風の時の温かい外套のように。すなわちどんな苦しいときにも、それを代わって負ってくださるイエスが共にいてくださるのです。それは外の目には見えません。見えるものではなく見えない真理です。
エゼキエルは、主に導かれてある谷に降ろされた時、枯れた骨がいっぱいありました。主が「これらの骨に向かって預言して、彼らに言いなさい。枯れた骨よ主の言葉を聞け」と。エゼキエルが主の言われたようにするとこの枯れた骨は、カタカタと音を立てて組み合わさって、骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上を覆いました。さらに主の聖霊を受けた時に生きた人になり、非常に大きな集団になったということです。
私たちはそのままでは、枯れた骨のように絶望的です。しかしそこに主の霊が降る時、生きた存在に変えられるのです。この並外れた偉大な力を頂いているのです。