2012年1月1日
「新しい契約」
榎本栄次 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 3章1-6節
明けましておめでとうございます。この年も神さまの支配される時として、御心を問いつつ歩みましょう。キリスト教信仰は、私たちがキリストを救い主として崇めるだけではない。私たちが許されて新しい命に生きるのです。キリストが私たちの身代わりになって十字架にかかって下さったのは、私たちの罪を背負ってイエス様ご自身の責任として引き受けて下さった事により、自由に生き始めるのです。キリストが高いところにおられて、私たちが仰いでいるのではなく、ご自身がこの地に降りて全く同質の存在になって下さった事を意味します。もし私が何かの罪に問われて皆の前に引きずり出されたときでも、主は一緒になってその責めを負うと約束くださった。キリストは私の保証人になってくださっただけでなく、キリストの推薦人に私をあげてくださったと言うことです。何とおこがましいことでしょうか。
誰かの推薦状というのはその人の背景を示すもので、その人自身よりもその推薦状によって価値が決められるものです。私は敬和学園にいる間、いろんな生徒の推薦状を書きました。校長の推薦状を見て、その本人を推し量るのです。推薦する人が信用されていないと、推薦状の効力はありません。同時にその逆も言えます。
使徒パウロは、コリントの教会の人々から推薦状を求められた。偉い人の推薦状のない宣教者は信用できないということです。そこで彼は「私の推薦状はあなたたちです」と言いました。彼らは決して誇れる状態ではなく、分裂し、疑い深く、不道徳で、争い、失敗し、不信仰で破れに満ちていました。その彼らを「私の推薦状」というのです。キリストがこの死ぬべき自分を許し、救い出してくださっただけではなく、このような私をキリストの使徒としてここに遣わしてくれている。その大きな喜びの証でした。
これはキリスト教が、ユダヤ教の一分派であったものから世界の宗教に発展する大きな分かれ道となりました。それまでのキリスト教ではユダヤ人以外の人は救いの外にある闇の人であり、ユダヤ人こそが光の子であるというように考えられ、キリストの弟子たちもまたその例外ではなく、ユダヤ教の律法の一点一画を疎かにしてはいけないと考えられていました。信仰はその行いに始終していました。一方、そのような風習や律法にとらわれず、何でも自由にしていいのだと考える無律法主義者もいました。そうした中で、矛盾に満ちながらもキリストの枝として自らを高め従わせていく信仰がここから出てきたのです。パウロたちが説いた福音は、「全てのことが許されている。しかし全てのことが益になるわけではない。・・・誰でも自分の利益ではなく、他人の利益を求めなさい。」(コリントⅠ,10:23)というものでした。この教えにはユダヤ人の伝統を重んじる人たちから猛烈な批判がありました。また反対に何でもいいのだと思い込んでいる人も多くいて結局その両方の人たちによってパウロの宣教活動は拒まれようとしていたのでした。
偉い人からの推薦状を持ったユダヤ人の保守的なキリスト者の言うなりになっていたら、キリスト教はユダヤ教の一分派で終わってしまっていたでしょう。また、それに単純に反発して自分勝手な行いをすることにだけ生きがいを見いだしていたとするならば、わがまま一集団にしかすぎなかったでしょう。両派は結局同じ体質でした。
パウロはそのような反対者の中で、何を頼りにし、誰を頼みにしたかというと、キリストご自身が私をお遣わしくださったという確信でした。キリストの証人として立たされている喜びでした。それは同時に自分の推薦書であるコリントの教会の人たちです。彼が熱心に教え、育て、一緒に活動してきた愛すべき弱い人たちをキリストの手紙、私の推薦状と言っているのです。キリストが私の推薦状となってくださったと共に、私たちがキリストの推薦状となるのです。
今日、教会が問われています。その時、自分の持っている物や条件ばかりにとらわれていると、世の中に埋没するしかないでしょう。もっと優れたものがいくらでもあるのですから。この世の価値に立つか、主が私を遣わしてくださったという信仰に立つか。あなたはどちらに立つかが問われています。この年を、心に刻まれて文字を読みつつ歩み出しましょう。