2011年12月25日
「神に捧げられたよい香り」
榎本栄次 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 2章12-17節
クリスマスおめでとうございます。救い主がこの世に来られたこと、しかも「飼い葉桶に寝かされた幼子」をしるしとして。それは他ならぬ私の最も暗い闇の中に来てくださったこと。分け隔てなくすべての人に救いがもたらされました。そこに人としての誇りと権威があります。
教会はキリストの体であると言われます。私たちはキリストに具体的にお会いすることはできませんが、それが可能になるのは教会においてです。教会の礼拝において、キリストにお会いでき、その恵みに預かることができます。毎週こうして礼拝を守るのは、その生けるキリストにお会いするためです。また教会の礼拝において、互いの交わり、天に召された先人たちとも共に主の前でまみえることができるのです。そしてキリストの体なる教会につながることによって、私たはキリストの体の一部にされます。
こんな罪深い、何の良いところもない者がどうしてキリストの体の一部分であり得るのでしょうか。むしろ悪魔の申し子ではないかとしか思えません。しかし、きりすとの体に結びつくことは私たちの側に要因があるのではなく、ただただキリスト・イエスの名によるのであって、神の憐れみによるのです。どのようにつまらない者であったとしても、キリストによって神の子とされた、ここに大きな喜びがあります。
キリストの弟子たちといえどもこの世での有り様はまちまちです。ある人は高名な名を遂げ幸せ一生を送る人もいますが、ある人は大変な苦労を負って人知れず亡くなった人も少なくありません。使徒パウロによれば、キリストにつながる者の人生はどちらにしても「私たちはキリストによって神に捧げられたよい香りです」。何と心強い言葉でしょうか。
この世的には成功者、あるいは失敗者と言われます。しかしキリストにあるとき失敗者はいません。どうしてと思われるような悲惨な人生も、否、その人こそ「キリストの良い香り」なのです。香りというのは犠牲という意味があります。ここにおいても、使徒の苦しみや失敗は尊い神に捧げられる犠牲であります。そこにおいて神は共に苦しみ、神の悲しみを慰める香りとなり、主と一体とされています。人が苦しむ時、それを無意味なマイナスとしか考えられない人には、悔いと滅びが待っています。神のところに持っていけない人にとっては滅びです。しかしこの苦しみを神のところに持って行き、神さまに依り頼む人には、その苦しみが永遠の命につながる喜びに変えられます。私たちは苦しいことを経なければ祈りを覚えません。その苦しみが神へ捧げられる時に芳しい香りとなるのです。
パウロは、キリストを力としつつも、具体的には多くの人たちから誤解や迫害を受けていました。そのために教会でも深刻な分裂が見られました。パウロにとってコリントの教会との和解が急務でした。彼はトロアスでの伝道に成功した(門が開かれた)けれども、コリント教会の様子を届けてくれるはずのテトスに会えなかったので、予定を変更してマケドニアに出向きました。この時、パウロをしてその不安に勝利させたのは「キリストを知る知識の香り」でした。「香り」というのは、神に犠牲として捧げられた「宥めの香り」(レビ1:9)に由来します。使徒の苦しみや辱めは無駄ではなく、キリストの十字架と共に神への香りとされるという意味です。自分の今の悲しみは決して無駄なことではなく、天に覚えられていることが分かったのです。使徒パウロの権威はぼろぼろでした。パウロに悪意を持つ人はとんでもないことを言い、彼を陥れようとしました。そのために教会は大変な混乱に陥りました。そこで苦しみもまた「神に捧げられたよい香り」という確信を得ました。パウロを慰めたのは、人間の知恵や言葉ではなく、キリストに結ばれているという確信でした。
神さまは、ご自分の使徒のふがいなさを責めず、その悲しみを喜んで引き受けてくださったのです。それがキリストによる神に捧げられた良い香りだからです。この神の愛を知ったことを「知識の香り」とも言っています。何と慰めに富んだ言葉でしょうか。牧師はそこに立つのです。神に遣わされることは人間にではなく、神に召されたということです。そこにこそ権威の根拠があるのです。クリスマスはこのところに主が立ってくださる福音です。