2011年12月18日
「キリストの前で」
榎本栄次 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 2章5-11節
アドベント第4週目の礼拝を守っています。暗闇の中に光が来たことを知らせる時です。
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。(創世記1:1-4)」創世記の物語は単なる神話ではありません。イスラエルの人々の信仰告白でした。当時(紀元前6世紀頃)イスラエルは、国が滅ぼされ、人々はバビロンに捕囚として連れて行かれ奴隷の生活を強いられていました。その奴隷であった人々によってこの文書は書かれたのです。彼らにとっておかれた現実は、まさに、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」という状況でした。どこにも光が見えない絶望の支配する辛く苦しい生活が続いていました。預言者イザヤはこの時の状況を真夜中にたとえ、「見張りの者よ、今は夜の何どきか」いつ夜明けが来るのかと尋ねています。(イザヤ書21:11)そのようなイスラエルの人々でしたが、深い闇の中に立たされながらも、必ず光は来る。神が光あれと言われると光が来るのだと神に希望を持ったのです。
選集の説教では、「闇を見よ」という話をしました。今日は「光に目を向ける」話をしましょう。パウロはコリントの教会の人々に対して、厳しい「涙の書簡」を書いた後で、「むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされないように、許して力づけるべきです」と勧めています。がらり変わって優しい言葉です。その根拠として「キリストの前で、あなたがたを許した」と言っています。「あんな人は、許せません」という気にさせられることがあります。このような悪を見過ごしては大変なことになる。たとえ嫌われても言ってあげることが親切だということがあります。それが次第に強くなると、憎くなって許さなくなるのです。そうして相手を攻撃するのです。当初は、正しい怒りだったかもしれません。しかし知らないうちに自分が神の座についていないでしょうか。パウロは「キリストの前に」と言っています。そこでは自分も同じ罪人、許された者として、キリストの前に立つことを意味します。「サタンにつけ込まれないために」です。サタンは巧妙です。「正義」の言葉を使ってその人を神から引き離すのです。サタンは単純ではない。時には暗い闇を使って、時には明るい光を用いてその人を真理からそらさせようとします。祈ってすること、キリストの前に置いてその過ちが正されます。
クリスマスは、私たちのところに光としてきて下さった主の御降誕を祝います。現実がどんなに暗くても、必ず光は来ます。相手がどんなに狡猾であったとしても、主の支配の下にあるのです。神が「光あれ」と言われると、光がある。それを信じるから、しっかりと闇に目を注ぐことができます。
主イエスは、「兄弟があなたに対して罪を犯したとき」二人だけで話し合うこと、それでだめなら誰か他の人を連れて行って諭すこと、それでもだめなら、教会に申し出ること。それでもだめなら相手にするなと教えました。次に弟子が「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何度許すべきでしょうか。7回までですか」と尋ねました。すると主は「7回どころか7の70倍許しなさい」と言いました。(マタイ18:15-17,21-22)ここには対立する内容が並べられています。前者は3階まで話してダメなら切り捨てよ、と言い、後者では490回(無限)まで許せとなっています。ここに、切ることと繋ぐことがあります。どちらも必要なのです。その正解は「キリストの前で」祈ってすることです。光も闇も神の前に置いて「よし」とされるのです。
私たちは、キリストの前に立たされる時、だれ一人自分のことを誇れる者はいないでしょう。神の憐れみにより、キリストに罪を覆い隠していただいてようやく立つことができるのです。その事実に目を向ける時、相手に対する見方も当然変わってくるのではないでしょうか。キリストの前に立ち、「許して、力づける」ことが勝利につながるのです。
今、皆さんはどのような時を送っておられますか。明るく楽しい光の時ですか、それとも苦しい闇の時ですか。その時は神の時です。神の前に置かれる時になくてはならない時になります。