今週の説教要旨

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2011年11月20日

「神を頼みとする」

榎本栄次 牧師

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 1章8-11節

 古代ローマのキリスト教徒たちは「メメント・モリ(汝死を覚えよ)」という言葉で挨拶を交わしたそうです。どんなに隆盛を極めていたとしても、いずれ滅び去って消えていく命であることを忘れてはいけない。自分たちの限界、どん底から今を見つめよということです。それはまた、自分を頼みとせず、神により頼む信仰へと心を向ける祈りでもあります。

                      

 パウロはコリントの教会の信徒たちに対して、自分たちがアジアで受けている苦難について「ぜひ知ってほしい」と訴えています。それは「耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては、死の宣告を受けた思いでした」(8,9)というものです。もう耐えることが出来ない沈んで行く船の状態です。肉体的にも精神的にももう限界を超えた状況であり「生きる望みさえ失ってしまった」ところに置かれたと言うことでしょう。ヨブが叫ぶように「神はわたしを殺そうとされるかも知れない」(ヨブ記13:15)神からも見捨てられたような状態に置かれているのです。

 それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました(9)。絶望のどん底で、神に出会うのです。パウロはそれを「知ってほしい」と勧めているのです。死の床、絶望のどん底にこそ、神との出会いがある。そこで復活の主に出会うのです。

       

 今、一人の中学生の相談にのっています。本人が大変な苦しみに耐えながらどうしようもない状態に陥ってしまいました。私はただ訪ねていって、黙って話を聞くだけしかできません。保護者はもう困り果てていました。一緒に祈りを繰り返すことと悩みを聞き、その都度呼び出しに応えて訪ねることしかできません。ある日、その少年は曇りが晴れるように問題から抜け出していました。理由は分かりません。その保護者の言葉です。「この子のために私は鬱病になりました。そして必死で祈りました。私たちはこの子のために祈ることを通して神様に出会いました」ということです。

      

 パウロはこの必死の思いの中で、復活の主に出会ったのです。それを人々に証しし、その勝利を共に祈るのです。コリントの教会の人たちが、このパウロのためにとりなしの祈りをする。その祈りの交わりは教会を立ち上げるのです。

 私たちが教会に属するとは何でしょうか。一人、ぽつんと主キリストに属し、神の前に在るというのではありません。互いに痛みを覚え合い、主に結びつき、祈り合うのです。これが教会でしょう。人間は誰でも病気になったり、迷ったり、生きる勇気を失ったり、罪を犯したりするものです。教会はそういう罪人の群れです。そして欠けある者の群れです。だからこそお互いのためにとりなしの祈りをする必要がある群れであり、そこに本当の交わりが生まれます。御利益宗教、困ったときの神頼みといわれるかも知れません。それからです。神に頼りましょう。互いのために安否を問い合い、祈り合いましょう。「祈ってください」と頼みましょう。教会に祈りの火が無くなると、形だけの教会になり命がなくなります。宗教改革によって明らかにされた教会観には、福音を正しくのべ伝え、聖礼典を執り行うことに加えて、御言葉への応答としての祈りがなければなりません。それが教会に固有のものとして述べられねば本筋から離れてしまうでしょう。教会にもし祈りがなくなるとするならば、塩味を無くした塩になります。だから私たちの教会は祈りの共同体でなければなりません。神を頼みとする教会です。

  

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。