今週の説教要旨

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2011年11月6日

「目を覚ましていなさい」

榎本栄次 牧師

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 16章13-24節

 本日は、永眠者記念礼拝です。信仰の先達に感謝し、共に主にある者として信仰を新たにさせていただきましょう。

   

 「眠られぬ夜のために」(ヒルティー)という本に、「不眠は内的生活に最大の進歩を促し、人生最善の宝を得させるところの、軽視すべからざる機会である。」とあります。昼間にあったことなどで悩む時、夜中に目が覚めて眠られなくなるのです。そんな時、床を立ち書斎に入り、聖書を読み祈ることにしています。すると思わぬ平安を得るのです。

 パウロはコリントの教会の人たちに対して書いた手紙で、エルサレム教会への献金を勧める根拠として、「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く行きなさい。何事も愛を持って行いなさい」と言っています。(コリント一、16:13,14)ここで「目を覚ませ」というのは、終末的な目で今を見ることです。神の愛に目を覚ませと言われているのです。私たちは神さまから大きな救いの恵みを頂いている。このことについて目がかすんでいると、どんなに頑張っていても見えなくなり、信仰に立てないのです。そして思い煩いが増えて眠られなくなるのです。やがて来るキリストの救いを忘れ、今ある恵みを当たり前のことのように思い、また自分で勝ち取ったかのごとくに思うため、神の恵みについて目がかすむのです。そして人に奪われまいと目を覚ますのです。結果として信仰の目が眠ります。

       

 コリントの人たちにとってはエルサレム教会の人たちの貧しさは、いわば関係のないことでした。だからパウロの訴えにも耳を貸そうとしません。パウロはそのことで大きな誤解も受けました。(コリント一、12:16)そのために彼は目を覚ましなさいというのです。

      

 神を信じるということは、固定した心理状態ではなく、「今」「ここで」「私が」という場所性と時間性と主体性のかかった動詞でなければなりません。ある時、牧師のお連れ合いから本の扉にサインを頼まれました。私はそこに「神を信じなさい」と書きました。考えてみると失礼なことかも知れません。神を信じていない人に、どうして牧師の連れ合いができますか。クリスチャンでない人にそう書いてあげてください、と反問されそうです。しかし私は牧師のお連れ合いだから余計にそう思うのです。クリスチャンだから神を信じなさいと書くのです。クリスチャンであると言うことと、神を信じると言うこととは同意語ではないでしょう。信じるというのは、動的なことなのです。具体的な事柄の中で起こる関係の言葉です。神様の御支配を信じるのですが、抽象的一般論では、クリスチャンはみな信じると言うでしょう。しかし具体的なことになるとどうでしょうか。特にそれが自分たちの懐に関わってくるようなことになると簡単にはいかないことがよくあります。「献金は信仰のバロメーター」とも言われます。礼拝の中で献金があるのは、お賽銭や会費とは違います。自分の体を主にささげますという献身のしるしなのです。献金というと、いやがる人がいるからうちの礼拝では献金がありませんという人がいましたが、それは正確には礼拝とは言えません。献金も主の恵みの時です。

 信仰に立って目を覚ます時、自分でない自分を発見するのです。私たちはこの世の思い煩いによって目が曇っています。信仰によって清くされ、しっかりと雄々しく立たされるのです。いい交わり、いい気分、いい学び、などは信仰にとって欠かすことのできない要素です。それらは本物になるには、自分の中に何か犠牲になるものが無ければなりません。もし生き甲斐ある生活をしようと思うなら、ささげることです。自分を犠牲にすることがなければ本物になっていかないでしょう。死海は入るばかりで出ていかないから塩の海で生物が生きられません。主が与え、主が満たしてくださり、主が整えてくださっているのだということを忘れると、福音が見えなくなります。

      

 目を覚ましましょう。今ある恵みが神からのものであるなら、これからだって神さまはよくしてくださらないはずはないではないか。「与えなさい。そうすれば、あなた方も与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量をよくしてふところに入れてもらえる」(ルカ6:38)と主は言われます。目を覚ますことは神の恵みに目を向けることです。

  

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。