2011年10月30日
「朽ちない種」
榎本栄次 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章50-58節
10月31日は宗教改革記念日です。16世紀、マルティン・ルターらによって起こされたことは、教会が聖書と福音にのみ立つという福音主義の信仰改革運動でした。それは人の行為というものをもう一度捉え直すことでもありました。人間の業が天国を築くのか、それとも意味のない悪の世界でしかないのかという問いです。ルターとカルバンの違い。
本日のテキストからパウロは結論的に「動かされないようしっかりと立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことをあなた方は知っているはずです」(58)と勧めています。私たちの命はやがて朽ち果てるものです。そこに希望があるのではない。主に結びつくことにより、朽ちないものに変えられる、そこにおいて私たちの苦労は決して無駄にならないのです。
創世記2章7節には「主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。人は土の塵に過ぎない、それに命の息(聖霊)が吹き込まれることによって人は生きる者となった、というのが聖書の人間観です。エゼキエルはそれを枯れた骨と表現しています。(エゼキエル37参照)自分たちは「枯れた骨」、空しい存在であり、そのすることは偽善に満ちたものかもしれません。それは分かったことです。神さまがそれに祝福の聖霊を与えて下さる。朽ちない種、イエス・キリストをくださったのです。その時に、ここでしかない、私にしかないことをすることができる。自分で永遠になろうと思わなくても、神さまがくださる「朽ちない種」につながるのです。それを信じて今「主の業に励む」のが復活信仰です。所詮私たちがすることは限られたことでしかなく、大した違いがないでしょう。ほんの少しの違いを比べているに過ぎません。
とはいえ、こちら側から追求する、人間の業に関係なしには生きる意味はあり得ません。朽ちるものが朽ちないものを着るときに、自分たちの「励み」や「苦労が無駄にならないこと」(58)が大きな喜びになります。逆にどんなに楽しいことであっても空しいことであるならば、生きる力は湧きません。刹那主義に終わるでしょう。
しかしパウロは言うのです。「蒔かれたときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し」(42)と。「最後のアダム(キリストのこと)は命を与える霊となった」(45)のです。すなわち向こう側から一方的に与えられる命です。それによって「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(54)それ故に私たちの行いが意味を持ち、希望をいだいて励むのです。
一番残酷な拷問は、意味のないことを繰り返しさせられることだと言います。しかしどんなに苦しいことであってもそれが主の復活によって意味のあることとされるならば喜ばしいことになります。どんな苦労も辱めも耐えられるでしょう。空腹でもやがておいしい食事が用意されていると分かっているなら、今の空腹は悲しみになりません。神さまが私たちのことを許し愛してくださった。一人も滅びないように独り子なるイエス・キリストを遣わして下さったことを知るとき、生きる意味がわくのです。
私たちの「最初の人」(アダム)は土(アダマ)からできたものであり、その命は誰もみな等しく死ぬのです。それは全く平等な真理です。信仰生活で多くの人が躓くのはこの点です。教会に来たのは、家内安全、商売繁盛、幸せいっぱいという祝福を得るためです。クリスチャンになったらいいことがあるだろう。そう思って信仰しているのに次々と不幸が来るのはどうしたことか。となるのです。しかし主は復活されました。そして私たちの死ぬべき者に永遠の命を約束されたのです。「朽ちない種」をくださったのです。そこにこそ私たちの信仰と喜びがあります。主の約束を信じて動かされないようにしっかりと立ち、主の業に励みましょう。