2011年10月23日
「身を正しなさい」
榎本栄次 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章20-34節
復活信仰は、死後の世界のことではなく、現在の生きた物の神様の意志です。それは主のお働きに参与する弟子たちの生きる根拠と力であり、倫理です。信仰は私たちの理性を否定するものではなく、見えるこの世の生活が本来の意味を取り戻すものです。それは神の側の出来事であり、私たちの側にある理解を超え、この世の現実を捉え直す根拠と力です。
本日は、収穫感謝礼拝を守っています。秋は実りの季節で、多くの収穫の恵みを感じる頃です。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)とあるように、この世の物事は、すべて神さまがお造りになったものであり、それらは極めて良いもので祝福されました。私たちはその恵みに与っているのです。神さまはこの世界を平和と正義と愛の満ちる良きものとしてお造りになりました。しかし人間の罪がそれらを汚し有害なものにしてしまうのです。そのせめぎ合いが、人の歴史とも言えるでしょう。
主イエスは「収穫は多いが、働き人が少ない」(ルカ10:2)と言われました。収穫物は、農産物や食料ばかりではなく、私たちの生活すべてを取り巻く神からの恵みです。また私たちの働きに対する神さまからの報酬でもあります。主イエスは、12人の弟子を宣教に遣わした後、他に、72人の弟子たちもお遣わしになりました。彼らが宣教に出るに当たり、その心構えを諭されました。
「わたしはあなた方を遣わす。それは狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履き物も持って行くな。途中で誰にも挨拶するな」と言っています。何と厳しい言葉でしょうか。キリストに従う者は、このような覚悟がなければ宣教できないとすれば、誰がその任に耐えられるでしょうか。誤解してはいけません。主はここで、「良しとされた」祝福がついており、その神からの収穫をいただくのです。「明日のことを思い悩むな」(マタイ6:34)といわれ、遣わす者を祝福されました。その故に財布や袋を持たなくても守って下さる神と共に歩みなさいと言うことです。
収穫祭はその恵みに対する感謝です。私たちがこの世界で見えるものだけに目を注いでいたとするなら、神の世界からの贈りものについては関心がなくなります。復活信仰は、神の世界の出来事を受け入れることです。パウロは、キリストの復活を信じることは、人の復活を信じることにつながると融いています。私たちの世界から神の世界に目を移すことにより、神による生の世界が支配している、そこに望みを置くことが復活信仰です。
「正気になって、身を正しなさい。罪を犯してはならない」(34)復活信仰は、今ここでの生活がどうでも良いと言うことではありません。キリストがこの世の君、この世の支配者であられることを信じ、主から命を受けそれに従って生きることです。正義と愛が貫かれています。「狼の中に送られた小羊」のようで、金も持たず、袋も持たない、知人もいない孤独な存在が、そこで知らなかった神の御支配をいただくのです。
今日は礼拝後、福島からこちらに避難してきておられる方たちをお招きして一緒に食事を計画しています。その方々には、神の深い御心がこめられています。苦しい時にもなお感謝すべき事柄があります。人が苦しんでいる時、それを共有し、恵みを分かち合うことを主は「私にしてくれたこと」として喜ばれます。