2011年10月16日
「死者の復活」
榎本栄次 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章12-19節
信仰は私たちの理性の延長にあるのではなく、神の側から来る啓示によるものです。キリストの復活は、キリスト教信仰にとって、宣教の中心であり、その根拠です。「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」(14)とあるように、死者の復活はパウロの宣教の中心で、唯一の希望でした。
死者の復活とキリストの復活を信じることが私たちの信仰です。しかし、どうしてそのことを信じることができるでしょうか、と苦しむのです。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、私たちはすべての人の中で、最も惨めなものです」(19)とも言います。私たちは「最も惨めな者」なのでしょうか。
パウロは12節から18節まで繰り返しキリストの復活と死人の復活は不即不離の関係にあることを力説し、キリストの復活は死人の復活の約束を示しています。この復活信仰は、私たちが思いこんだり、考えついたりする単なる希望ではありません。「この世の生活で」私たちが「キリストに希望をいだいているだけだとするならば」最も惨めな者になってしまうと言っています。復活は「わたし」が主になり、納得することではありません。「われ思う故に、われあり」ではないのです。私に替わって「イエスが主」になることが復活です。
「この世の生活」は神の被造物としてのもろさ、はかなさ、おろかさ、うつろいやすさを特色としています。そこに真理があるのではありません。キリストによる真理の希望は、このようなこの世の被造物によって証明されるものではなく、そこに根拠を置く希望ではないのです。キリスト教信仰は、かりそめの単なる希望をキリスト者に与え、過ぎ去っていくこの世で、つかの間の希望を与え、一時の平安を与える気休めの宗教ではありません。そうだとすればキリスト者は、この世界のすべての人の中から選ばれたのではなく、かえって最も憐れむべき存在になります。私たちがどのようにはかないものであっても、弱く愚かになっても、キリストが命をつないでくださいます。
「私は神を信じません」という人がいます。「死者の復活、イエスの処女降誕、奇跡物語など信じられません。それがなかったら信じるのですが」と。もっともだと思います。「私も信じられません」。肉なる私は、この死者の復活ということをどうしても素直に信じることができないのです。だめな牧師で、牧師として失格者だと思います。そう言いながら牧師を続けているのは、偽善でしょうか。簡単に言っているのではなく、苦しんでいます。自己葛藤がいつもついて廻ります。ただ主の確かさとその憐れみにより、希望へと導かれつつ遣わされているのです。主体が、私から神に替わることが復活です。
キリストの復活は、この世の生活のためのものではなく、この世を超えた、死者の世界をも約束する故に、この世に生きる力をも与えてくれます。このようにキリストの復活によって開かれた現実に立って、緩やかな希望をいだきつつ、罪許されて生きていくのです。「主は生きたもう」という宣教の喜ばしい声は、どのような状況に置かれた人にも朗らかな希望として伝えられます。絶えず揺らいでいる単なる希望ではなく、死を超えた復活への希望こそ、何ものにも代え難い明日を目指しつつ、今日を生きる人間の原動力となり、源泉となるのです。