今週の説教要旨

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2011年9月11日

「愛を追い求める」

榎本栄次 牧師

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 14章1節-19節

 キリスト教信仰は神の愛の共同体(教会)の中で生かされ育てられ、体験させられるものです。個人的なイデオロギーではありません。また倫理や道徳でもありません。キリスト教の墜落は、不道徳になることよりもキリスト教が道徳になってしまうことだとも言われます。「神は愛(アガペー)です」(ヨハネ第一4:16)。その愛は、無機質な愛ではなく、どこまでも温かい人間の血の流れている愛です。信仰は、人間の顔をしていなければならないでしょう。固定した律法主義になることはその命を失うのです。

   

 罪の存在でしかない者が神に許された者として共同体(教会)の中で生かされています。努力は不必要なのでしょうか。また理性などはない方が信仰的なのでしょうか。そうではありません。道徳もイデオロギーも理性もこの愛もなくてはなりませんが、その目的が共同体を造り上げるためのものでなければはなりません。だからキリスト者は、その律法の一点一画も軽んじることのない知恵と努力を求めるものでなければなりません。

                  

 コリントの教会では異言について議論があったようです。異言は「霊が理性を追い出して御神へと導く」霊の賜物と思われていました。しかしこれは他の人にとっては何を言っているのか分かりません。その様子は神懸かり的で、神と話しているというよりは、人に見られるためにそうしているようなことでした。パウロは異言を語ることについて特別な人のように見ていません。むしろ預言を重んじています。預言というのは、未来の予言ではなく、裁きと悔い改めの言葉であり、神の意志の啓示です。それにより人は、「イエスは主なり」と告白し悔い改めて神を拝することへと導くのです。パウロは異言や預言に先立って「愛を追い求めなさい」と勧めています。その愛はあくまでキリストから来るもの(アガペー)です。そのために「霊の賜物(カリスマ)を熱心に求めなさい。」「教会を造り上げるために」は自分だけ宗教的に篤くなっていてもいけない。それによって人々が新しくされるかどうかが問われます。自分が問題なのではない。相手に分かる言葉で話さなければいけません。よくある誤解ですが、難しい話や何を言っているのか訳の分からない話を高尚だと誤解しがちです。反対に分かりやすいのは、神秘性がない軽い話というように捉えてしまうのです。そのために説教も、分かりにくい異言のような内容になっていい気分になりやすいのです。

                  

 大切なことは、キリストに生かされることです。キリストの愛に生かされ何とかしてあの人と一緒に恵みにあずかりたいという愛の共同体を造り上げる信仰です。あまり目立たない賜物をもった人々を弁護することと、視点の基準を強い人ではなく、一番弱い人に合わせていくことが求められるでしょう。

 旧ソビエトの大統領ゴルバチョフは「ペレストロイカ」という本の中で「ただ石を運んでいるだけの労働は苦痛でしかないが、それが教会堂の建設のためだと分かると、苦痛ではなくなる」と言っています。私たちの生き甲斐は、どれだけ多くのものを手に入れたかではありません。またどれだけ人から称賛を受けたかではありません。自分の働きがどれだけ神さまのご用に役立ったかということでしょう。私はその様な視点で自分をはかっていきたい。自分を造り上げていきたいと願います。

                        

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。