今週の説教要旨

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2011年8月21日

「ふさわしい者として」

榎本栄次 牧師

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章27-34節

 止揚という言があります。AとBがぶつかってAでもなくBでもないCになることです。大きなものが小さなものを飲み込むのではなく、正しい者が悪い者を支配するようになるのでもない、二つがぶつかって新しい何かが始まることを止揚と言います。イエス・キリストの到来はまさにこの地上に止揚が起きたことです。それまでは邪魔者、余計な存在でしかなかったものが、神様の前にかけがえのない者として迎えられ、新しい出来事の主人公にされる。そんな出来事が起きたというのが福音です。主イエスは、その大きな喜びを聖餐と言う形で弟子たちに伝え、そのように行うことを命じられました。主の聖餐にはキリストの十字架と復活による「ふさわしい食卓」を囲む新しい世界への招きがあります。またそこには一つの家族として共に主の体と血とを頂く贖いがあるのです。

                     

 パウロはコリントの信徒の人たちに対して、「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」(コリントⅠ 11:1)と言っていますが、「わたしに倣えというのではなく、「私がキリストに倣っているように、わたしに倣いなさい」と言うのです。私たちは「わたしに倣わないでイエス様に倣いなさい」とは言いますが、「わたしに倣いなさい」とはなかなか言えません。自分の責任が問われるからです。パウロの場合は、自分の行動の根拠がキリストにあるということであり、あなた方もその根拠をキリストに置くようにということです。

                  

 パウロは主の教会で行われる聖餐のあり方について、「あなたがたをほめるわけにはいきません」(11)と言っています。なぜかというとそのあり様が「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだり」(27)していたからです。そのことから多くの悲劇が生じていました。コリントの教会では実際の食事を聖餐として守っていたようです。教会での食事会を単に自分の食欲を満たすときではなく、主の愛と恵みを覚えるときとして意味づけられていました。家庭での食事もまた同じように、食欲のため以上の意味がなければなりません。食事の時に祈りをしていただくのはそんな意味があるのです。彼らの愛餐は、「空腹の者がいるかと思えば、酔っ払っている者がいるという始末」でした(21)。だから貧しい人にとってはこの時が一番厭なときでした。

                          

 さて「ふさわしい」とはどんなことでしょうか。食事は最もリラックスする時であり、それが場違いな雰囲気だと本当にいやなものです。主イエスの食事にふさわしいというのは、主のご意思がその形式に表われていることです。家庭においても重んじられねばなりません。

                  

 主イエスはある安息日にファリサイ派の議員の家に食事に招かれました。その時「人々はイエスの様子をうかがっていた」と書かれています(ルカ14:1以下)。人々は何を窺っていたのかと言うと、そこに水腫を患っている人がいましたが、果たしてイエスはこの人をどうするだろうかとうかがっていたのです。ファリサイ派の議員にとって安息日の掟は、譲れない事柄でした。この人をいやすことよりも律法の方が重要でした。またこのような人はこの人の家には「ふさわしくない」存在でした。主イエスは、その人の方が大切だとされるか、それともファリサイ派の手前、律法に従ってこの女性を見捨てるかを伺っていたのです。主イエスはこの人を招き、いやされました。主イエスにとって「ふさわしい食卓」は、整った食卓ではなく、愛に満ちた病んでいる人の痛みを共有することでした。このことの為にイエスは、ファリサイ人から敵視され、十字架に架けられる結果になりました。主イエスにとって、まさにこの時が十字架の道か、安定した出世の道かの分岐点でした。主が私たちと共に食卓につかれたので、わたしたちは救われたのです。主が私たちと共に食卓につかれたので、わたしたちは救われたのです。ここに止揚が起きたのです。主ご自身が新しい出来事を生んで下さったのです。その主の気持ちを覚えて食事をすることがふさわしい食卓なのでした。

                  

 主の交わりが、自分たちの虚栄や欲望を満たすために成されるなら、十字架にふさわしくなく、主の体と血とを犯すことになります。十字架を意味のないものにすることであり、そのことによって自ら裁きを招くと警告しています。ここでの「ふさわしい」というのはその人が洗礼を受けているかどうかということではありません。主の聖餐を通して人は和解するのです。そのために「たがいに待ち合わせ」(33)みな一緒に食事に着くことこそがふさわしいことです。ここで許され、和解が起こり、いやされることを確認するのです。復活にあずかる聖餐式ではありながら、そのことによって自分たちに裁きを招くことになってはいけません。「ふさわしい食卓」は、分裂している者たちが、互いを、主が許されたことを覚えて待ち会うことです。そこに新しい出会いが起こります。それは決して屈服したり曖昧にしたりすることではない、キリストにある新しい世界、止揚の始まりです。私たちは、ふさわしい者として招かれました。

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