今週の説教要旨

HOME  >  説教要旨  >  2011年7月31日

2011年7月31日

「すべて神の栄光のために」

榎本栄次 牧師

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章23節-11章1節

 主イエスは「これらの小さい者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」(マタイ18:10)と言われました。その小さい一人の中に深い神の御心が隠されているからです。自分にとってはどうでもいいことが、他の人にとってはどうでもよくない譲れないことがあります。人は関係で成り立っており、それが壊れると固く心を閉じて重要な課題もないがしろになりかねません。ですからこの「どうでもよいこと」「小さなこと」は決して「どうでもよいこと」ではなく、そのこと自体ではなく、二人の関係において重大な真理問題が隠されています。神の栄光はこの中に現されます。

  

 今日のテキストにおいて使徒パウロは、市場で売られている肉についての質問に答えています。ユダヤ人には食べ物については厳しい教えがありました。コリントにおけるキリスト教徒の周りには、ユダヤ人でキリスト教になった人、異邦人からキリスト教徒になった人、不信者などがいてそれぞれに立場や考えに違いがありました。このようなとき、キリスト者は、どうすればいいのでしょうか。何を食べるかというようなことは、信仰や良心とは関係なく「どうでもよいこと」でした。しかしことはそう簡単なことではありません。パウロは3つの態度を勧めます。

 第一に、すべて市場で売られているものは、いちいち良心に問うことをしなくて食べてよい。どうでもいいことにいちいち捕われる必要はありません。その中に偶像に供えられた物が混じっていたとしても日常の食物として売られている物ですから、いちいち良心に問わなくてもかまいません。元来、「地とそれに満ちている物とは、主の物だからである」(詩編24:1)神の造られた物はみな良い物であって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。神の言と祈りとによって清められるからです(第1テモテ4:4,5)。

       

 第二に、もし不信者の誰かに招かれて、そこに行こうとする場合、自分の前に出されたものは何でもいちいち良心に問うことをしないで食べたらいいとパウロは言います。たとえそれが異宗教の供え物であったとしても、それで汚れたりはしません。呪いや占いに惑わされることはありません。よく印鑑や家の向きに囚われる人がいますが、基本的に関係ないことです。

 しかし第三に、誰かがあなたに「それは偶像に供えられた肉です」と言ったら違う問題が生じます。その場合は、それを知らせてくれた人のために、またその人の良心のために、食べないがよい、と言います。パウロの言葉に不節操さを感じますが、彼は自分を基準においていないからです。どんなことをしても許されています。しかしそんなことも他人の益になるのではありません。どうすることがその人を救いに導くことができるかを主眼にしているのです。「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(31)というのが結論です。

 私たちの行動の基本に、「神の栄光を現すために」というのを据えるべきです。そのことによって自分が満足するかどうかではなく、相手の徳が高められることを心がけるべきなのです。私たちの周りには、伝統や習慣が取り巻いています。それらの多くは、飲んだり食ったりする「どうでもよいこと」がほとんどですが、それから自由にはなかなかなれません。それをあたかも真理そのものであるかのように主張したりするのを聞くことがありますが、信仰の本質を偶像レベルに引き下ろすことでしょう。さて私たちの身の回りの事柄は、この「どうでもよいこと」がほとんどです。しからばそれらは意味のないことでしょうか。パウロはそうは捉えません。そこで、「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたもわたしに倣う者となりなさい」(11:1)と勧めます。キリストがなさったことに倣うのです。

      

 石川啄木の「一握の砂」に「頬つたふ 涙のごわず 一握の砂をしめしし 人を忘れじ」という歌があります。頬を落ちる涙を拭おうともせず、はかない「一握の砂」のような人生の意味を生きていこうよ、と教えてくれた人のことを私は忘れない、というのでしょう。

 取るに足りないような小さなことに、人への愛を込めてひたすらに努めている人を私は尊敬します。「気をつけなさい」という主の言葉が響きます。そこにある神の御心、そこで現すことのできる神の栄光があるのです。自分の利益を求めていたのでは何の意味もないことが、神の栄光の現れるために、他者を思うとき、永遠の真理と命があります。それに努めることは何と幸せなことでしょうか。

                        

日本基督教団 世光教会のご案内

世光教会の礼拝に参加をしてみたいとお考えの方、キリスト教会は、キリスト教信者だけが集うところではありません。
厳かな雰囲気と温かみのある空間で、清々しい祈りの時間をお持ちいただけます。
小さなお子様づれでも安心してご参加ください。
また、信仰のこと、心に抱えている悩みごとなど相談したいことがございましたらご遠慮なくおいで下さい。
いつでも、皆さまのお越しを、心から歓迎いたします。
世光教会では、結婚式をはじめ、キリスト教による告別式など冠婚葬祭も心をこめておこなっています。

聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。