今週の説教要旨

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2011年7月17日

「偶像礼拝を避けなさい」

榎本栄次 牧師

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章 14-22節

 信仰は神と私たちとの人格関係です。一方通行ではなく、「わたしとあなた」の関係です。そこには開放と、縛りが伴います。イスラエルの民がエジプトの奴隷から解放されたことと、モーセの十戒(トーラー)による縛りが信仰の世界です。その関係において人格関係が築かれるのが信仰であり、神の民となることです。モーセの十戒のうち、第一戒から第四戒までは神礼拝に関する内容になっています。第一、二戒は「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれに向かってひれ伏したり、それに仕えたりしてはならない。私は主、あなたの神、わたしは熱情の神(ねたむ神)である」(出エジプト記20:3-5)とあります。第三戒において「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(7)とあり、第四戒では「安息日を覚えよ」と続きます。神信仰の徹底が求められています。そして五戒から十戒までは、倫理的な禁止の内容が掲げられています。倫理の前に、神との関係が戒められていることは重要です。

  

 旧約聖書、新約聖書にある「約」は、「契約」のことです。神の人との間における人格的契約を結ぶことを意味しています。信仰は知識や倫理ではなく、神との約束事にあるのです。

 「今、わたしが教える掟と法を守りなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう」(申命記4:1)。これが神とイスラエルの民との契約です。私たちの信仰もそこに根をおいています。解放と縛りがあります。

       

 パウロはコリントの信徒たちに対して、「偶像礼拝を避けなさい」と勧めています。旧約聖書の十戒に目を向けるのです。しなければならないことは計り知れないほどあるでしょう。しかし、今求められていることは神様との関係です。そこをしっかり押さえることから次が始まるのです。

 主の祈りの「天にまします我らの父よ」は、神は「天」であり、「神のほか何ものをも神とせず」を告白するものです。「わたしは神を信じません」という人でも、案外何かを神としているものです。自分の信念であったり、お金であったり、恋人であったり、家族であったり、進路であったり、偉い人物であったり、自分の属する党派であったり、何かを絶対にしていないでしょうか。神を信じることは、それらをいちばん頭(天)に置かないことです。

 私は若い頃、大きな劣等感に捕われていました。その奴隷になっていたので、すべてのことについて正確に対応できなくなっていました。たとえば、CSの子どもたちが私の顔を見て笑うと、バカにされたと思って腹を立てていました。そんなわたしがはっと気付かされたことがあるのです。それは偶像礼拝をするなということでした。神でもないものを神のようにしてはいけないということです。そうすると自分も人もちゃんと見られていないのです。自分を嫌い、恥じて隠れていたときに、イエス・キリストがその私を引き受けてくださっていることに気づかされたのです。偶像は自分を奴隷にしますが、神様は自由にしてくださるのです。神を信じることにより自分を受け入れることが可能になるのです。

      

 「避ける」という言葉は「逃げる」という言葉でもあります。「みだらな行いを避けなさい」(6:18)と言うときにも、誘惑からは逃げるしかない、交わってはならないと言う警告を含んでいます。偶像には魅力があり、説得力があります。それさえ手に入れば大満足。それがなければ真っ暗闇というようなものです。しかしそれこそが大きな闇なのです。「神は私たちの避けどころ」(詩編46:1)とあるように、神様のところに逃げ込むのです。そこで初めて自由にされ、たとえそれが無くてもいいというところに立てるのです。

 つぎに「キリストの血にあずかること(コイノニア)ではないか」(16)とあります。これは共同体、交わり、参与することを意味します。仲間になることです。キリストの血と肉であるパンとブドウ酒による聖餐にあずかった私たちは、同じ契約の民とされたのです。キリストの体である教会に参与させていただいているのです。それはまた、偶像に仕えない、その仲間とならなくてもいいことです。キリストにより新しい体の一部分にしていただけたのです。もう一人ではありません。信仰にある友のことが自分のように心にかかります。

 教会の礼拝であり、聖餐に共にあずかることを通して神様につながるのです。「安息日を覚える」ことは、自分たちの命に関わることであり、上よりの大きな恵みをいただくのです。その喜びを得ることが神の希望されていることです。神様は、「熱情の神」であり「ねたむ神」であられます。「彼らは神ならぬものをもって、わたしのねたみを起こし、むなしいものをもって、わたしの怒りを燃え立たせた」(申命記22:21)とあるように、神様は私たちのことをねたむほどに愛しておられます。ねたみを持つことは愛しているからです。どうでもいい人はねたんだりしません。

 その神にわたしたちの思いを集中させましょう。神様は本気で応えてくださいます。どんなに整っていなくても、主は共にいて耐え忍び、大きな自由と喜びへと導いて下さいます。

                        

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。