2011年6月26日
「空を打つ拳闘はしない」
榎本栄次 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章 24-27節
使徒パウロは「福音のためならどんなことでもします」(23)と言いながら、人を自分に合わせようとせず、「すべての人の奴隷になりました」(19)と告白しています。そして宣教と競技にたとえて「あなたがたも賞を取るように走りなさい」(24)と勧めています。
すべての信仰者がイエス・キリストに注目し、その福音を共に受け止めること、このキリストへの集中こそが宣教の基礎になるのです。コリントの教会に欠けていたものは、まさにキリストへの集中でした。「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」(1:12)と、キリストさえも一つの派閥の方便にする有様でした。そこに混乱と分裂、争いがありました。
カルヴァンは、「福音にあずかるとは、その実を受けることだ」と言っています。福音が語られるところでは、必ずその実である成果が現れるはずです。それがないとするならば、どこかがおかしい、どこに原因があるのか問わなければなりません。福音は空想ではなく、神の力だからです。(1:6,22-23)
パウロの言葉から聞き取らねばならないのはキリストへの集中です。現代人は人の意識の集中を妨げる強い力の中で生活していると言えます。価値観の多様化、商業主義による興味の拡大、テレビの影響、便利さから来る連帯感の喪失などです。教会内部にあっても、信仰理解の違いや伝統の違いで互いの出会いの場が失われています。そのようなところで、何において一致するのでしょうか。神の側から来る力を待つこと、それに集中することにより、福音に集中して、信仰の一致を目指していくことが、教会生活に活力を与えていくことになるのではないでしょうか。
競技する上で、どこに焦点を当てて攻めるかということは、大変重要なことだと思います。教会形成についても大切なことです。使徒パウロは自分たちの宣教を競技にたとえ「わたしは空を打つような拳闘はしません」と言っています。目標をしっかりと決めて打つということです。その目標とは、キリスト・イエスのことです。そこに焦点を合わせることです。つい熱心のあまり、神から反れて、他のことに熱心になってしまうのです。それが「空を打つ拳闘」です。パウロが自分自身の目標として「同士」「協力者」「交わり」(コイノーニア)(コリントⅡ 8:23)を強調します。彼の場合、コイノニアが人間的接触という意味で一度も用いられていないことが重要になります。福音は一人で受け止めるものではなく、共同体である教会において共にあずかるものです。そのために、隣人への思いやりや、共に食事をすることなど大切にしなければなりません。パウロが「わたしに倣う者となりなさい」(1:1)と言うことは、彼がキリスト者として完全な人間だからではなく、「キリストに倣う者であるように」倣えと言うのです。
私たちの年間目標と聖句は「神の秘められた計画を宣べ伝えるのに、優れた言葉や知恵を用いませんでした」であり、それに続く言葉が「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(コリントⅠ 2:1-2)となっています。すなわち宣教の焦点がキリストに絞られています。わたしたちの教会を成り立たせるのは何でしょうか。よい説教者でしょうか。若い指導者でしょうか。立派なスポンサーでしょうか。それらの人を上手く集める手腕でしょうか。何が必要なのでしょうか。そうではない。それらが空を打つ拳闘です。神の恵みが働く聖霊でしょう。そこに焦点を当てることです。