今週の説教要旨

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2011年6月19日

「神の民となる」

榎本栄次 牧師

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章 19-23節

 私たちは皆何かになろうとしています。教師になろう、医者になろう、牧師になろう、保母さんになろう、妻になろうとしています。人は人であると共に人になる生き物です。神様も神様になられる方です。そして私たちは神の民になるのです。この「なる(エゲノメエン)」は関係の言葉です。親である人は長年かかって親になるのです。

 パウロは「私たちは、誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」と述べています。「ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになりました」「律法に支配されている人に対しては、…律法に支配されている人のようになりました」「弱い人に対しては弱い人のようになりました」「何とかして何人かでも救うためです。わたしは福音のためならどんなことでもします」と言っています。何と自由な人でしょう。このような人こそ人の心を開くことのできる人でしょう。自分のようにならせよう、強い人になろうと努めますが、結果はその逆になることが多いのです。関係においてなっていくことが大切です。パウロは福音のためならどんなことでもしようと言うのです。そこに関係性を模索し尋ねるのです。

 イエスのところに「徴税人や罪人もやってきて、イエスや弟子たちと同席していた」。(マタイ9:10)その様子を見て人々は、「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」(同11:19)ようになっていたのでしょう。事実、主は彼らの仲間になり、寝食を共にしました。イエスは徴税人ザアカイの家に止まりました。(ルカ19)だから皆の眼にはイエスは罪人の仲間となったのでしょう。そしてそのことによってザアカイの動かない堅い心が雪解けのように溶けだしたのです。このように「なる」とはひとつの出来事を示しています。

 「王子と乞食」という話があります。王子が乞食と交替して面白いことが起るのですが、後で元に戻る話です。水戸黄門の話も同じです。これは「なった」のではありません。一時的に「なって見せた」だけです。しかし主イエスは僕になったのです。人々に仕えられるためではなく、仕えるために人の奴隷になられらのです。パウロは自分のために奴隷になって下さった主の贖罪の福音に触れ、罪の奴隷から解放されて自由にされたのです。だからこの福音のためならどんなことでもすると、奴隷に「なった」のです。そして彼もまた「なって見せた」のではなく、奴隷になったのです。それはパウロのために・・・なったお方を知った、つまりそのお方に出会ったということに起因しています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。(フィリピ2:6-8)「キリストもご自分の満足はお求めにならなかった」。(ローマ15:3)「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた」(イザヤ53:3)のでした。このように神様はご自分を私たちと深く関わらせ、関係をつくられる方です。「わたしはあなたがたのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる」(レビ記26:8)とあります。信仰は固定された形式や義務ではありません。生きた関係です。神様はわたしたちの神となって下さり、私たちは神の民となるのです。ここに信仰の力があります。

 人々から義人と崇められ、英雄と尊敬される人はうらやましく、そのようになりたいと思います。しかし我々の間に来られたお方は、そのような立派な姿ではなかった。その有り様は我々と何も変わらず、むしろ逆に、その傍らを顔を背けて通りたくなるような人でした。立派な身分の王子や品性のある学者ではなかった。ただの乞食少年であり、ならず者であり、むさ苦しい田舎の酔っぱらいのおじさんになられたのです。それ以外ではない。主は私を救うために、わたしの周りを巡り歩き、そうなって下さったのです。主御自身には大逆転は起こらなかった。死に至るまで。なって見せる人は多くいるでしょう。なって見せてそれをエンジョイして、自己を誇る人はいるでしょう。その奥ゆかしさは人の求めるところでもあります。しかしあのお方は「なられた」のであり、罪人の裁きを受けられたのです。「損して得取る」という言葉がありますが、「損して損を取る」お方でした。

 パウロが「なった」のは、その秘訣を主イエスから受けたからでした。彼は「福音のためにはどんなことでもする」と言っています。主イエスがして下さったという現実に触れて、「自分の身体を打ちたたいて服従させる」のです。そうしないと失格者になる、福音の参画者になれない、関係がなくなるということです。それは資格ではなく恵みです。奴隷になったら福音にあずかるというのではなく、彼にとっては、奴隷になること自体が、神の民であり、嬉しくて仕方ない福音なのでした。

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
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