2011年6月12日
「そうせずにはいられない」
榎本栄次 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章 16-18節
本日はペンテコステの礼拝を守っています。主イエスの「父が約束されたものをあなた方に送る。高いところからの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)の言葉通りに、弟子たちは「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ち」(使徒1:4)「心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒1:14)のでした。そして五旬祭(ペンテコステ・50の意)の日に、弟子たちの上に聖霊が降り、「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で語り出した」(使徒2)のでした。この日から弟子たちは、大通りに出て、主イエスの証人となりました。ペンテコステは、もとは過ぎ越し祭から50日目の祭の日でしたが、キリスト教はイースターから50日目というこの日に、弟子たちが聖霊を受けたので、この日をペンテコステ(聖霊降臨日)と言うようになりました。いわば、この日から教会が始まったのであり、ペンテコステは教会の誕生日です。それまで、隠れて集まっていた信者でしたが、この日から外に出て、誰をも恐れず、「そうせずにはいられない」ようにキリストを証しし、そこから信仰者が増え、教会ができていったのです。弟子たちが立派で強かったから聖霊が降ったのではなく、聖霊が降ったから強くなったのです。
今日のテキストでは、パウロの使徒性について述べられています。パウロが「使徒」であることの資格は、復活して天に上げられた栄光の主との出会いに基づいています(1)。「使徒職」は人から認められたからあるのではなく、神から召されて受けた者であることを強調しています。彼はその職をイエス・キリストの任命によるのであって、この世につけるもの、あるいは、神以外の他の誰かによって任命されるものではないことを強調しています。ですから人気を取ったり、へつらったりしようとはしません。神からの召命にのみより頼むのです。そのような意味で、使徒の務めを担っている者は、世界のただ中にありながら、同時に世界から区別されているのです。
使徒は神に召されたものであり、この世から自由でありつつ、教会に召されて人に仕えます。まず使徒は、世から区別された者の意味があります。ペンテコステが、「父からの約束されたもの」、聖霊によるものであったように、上から頂くものです。人気や学識、縁者でなるのではありません。地縁、血縁から分離された職です。また何かもらえるからとか、頼まれたからと言うようなことでもありません。神さまからの命令を受けて始まるのです。ですから使徒は、すべてのものから自由で、何者にも縛られません。
また、キリストにあると言うことは、他のキリスト者との交わりにあるということでもあります。使徒職はそこで確認されます。使徒は、徹底的に人の中に遣わされ、奴隷のように人に仕えるのです。人の中で職務は確認されなければなりません。使徒たちが「他の国々の言葉で語り出した」ように、独り言を言うのではなく、どの人に対しても分かる言葉を用いて話すのです。
そのように牧師もまた、神から召されたものでありながら、この世に遣わされ、教会の人たちに仕えなければなりません。神からの召しにあずかるという自覚を召命感と言います。これは孤独なものであり、一方的な神からの力を待たねばなりません。それはまた一回的なものでありつつ、日ごとに新しく受ける連続なるものです。そのしるしは教会員との交わりにおいて確認されます。パウロは自分の使徒職とその働きについて、「そうせずにはいられない」のだと言っています。それは上からの聖霊による力です。
牧師である私もまた、小さな存在でありながらそうせずにはいられないものがあります。神からの召命を頂くからです。日毎の祈りと聖書から受ける聖霊の力です。そのことはまた外に向かう福音宣教になります。「わたし自身、兄弟たち、すなわち肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられても(のろわれても)よいとさえ思っています。」(ローマ9:3)と言うほどのものです。キリストに捕えられましたから、上からの召しにあずかり、そうせざるを得ないのです。世光教会の一人ひとり、ここにいる子どもたち、青年からお年寄りまで、キリストが愛されたかけがえのない人格です。目に見える教会、牧師であることの資格は、この教会を生み出すこと、この教会に仕えることです。その歴史形成に参与させていただくことです。キリスト者にとって、継続的に使徒職を担っていくことの資格です。
パウロの召命は、神の召し、キリストに捕えられた者という誇りを持って自分自身を「キリスト・イエスの僕(奴隷)」と呼ぶことです。(ローマ1:1)奴隷は雇われ人とは違います。賃金や報酬を要求できません。それを受けずに働くのは当たり前です。僕が命じられた通りにしたからといって主人は彼に感謝しないのは当然です。「そうせずにはいられない」上からの力を受けるからです。いくら止められたとしても、人を愛し、この世の人たちのために尽くしたいのです。互いに、平和に暮らせるようになるために、この身が神に捨てられてもかまわないと思うほどに捕えられたのです。そこに教会が生まれます。