2011年6月5日
「兄弟のために」
榎本栄次 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 8章 7-13節
主イエスは「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)と言われました。キリスト御自身が義人としてではなく、罪人の頭として十字架におつきになりました。それは罪人であるわたしたちを救うためです。わたしの罪を許すために、共犯者になって下さったのです。ここに主イエスの愛があります。わたしたちはどこでキリストに会うのでしょうか。強いところでしょうか、それともわたしたちの弱いところでしょうか。
弱く見えるところに気をつけましょう。主イエスは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)また「これらの小さい者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」(マタイ18:10)と言われました。つい私たちは、強い者の論理に気づかないのです。だから「気をつけ」なければなりません。そこに宝物が隠されているのです。「小さい兄弟」のそばに行くとそこには天使がいます。そこに大切なものが隠されています。それは罪に迎合するのではありません。主の十字架の愛につながるのです。慌てずにゆっくりしていることには合わせましょう。
パウロは、偶像の供え物の肉について述べます。ユダヤ人はそれを食べることは信仰の本質に関わることであり、自分の身が汚れると考えていました。ユダヤ教から出発したキリスト者でしたが、この古い風習については理屈通りには割り切れないものがありました。進んだ人、新しい人、自由な人たちは進んで肉を食べたのでした。しかしパウロは「兄弟をつまずかせないために、私は今後決して肉を食べません」(13)と言っています。それは肉を食べることが信仰に反するからではなく、兄弟をつまずかせないためです。それは愛の業です。速く歩くことができなくても、ゆっくり歩くことは誰にもできることです。
「わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけでもありません」(8)「神の国は飲食ではない」(ローマ14:17)からです。食べても、食べなくても信仰に関係ありません。それらは「どうでもいいこと」です。そこに真理があるように思い違いをしてはいけません。食べるか、食べないかを判断する基準は、その食物が清いか、汚れているかではなく、そのことによって弱い人がどう思うかということです。「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように」という観点が重要になってきます。それは決して「どうでもいいこと」ではない。重要な真理が隠されているのです。ここで「自由」(エクスーシア)という言葉は、権威とか権利とかいう意味もあります。わたしは誰かに縛られたくない。主体的でありたい。立つか、座るか、食べるか食べないか、そんなことは自由で、人にとやかく言われたくない。自由に主体的でありたいと思います。しかし本当の自由人は真理の囚人でなければなりません。(新島襄)自分の権威や権利を行使する自由ではなく、弱い人たちを思いやる力でなければなりません。
自由の基準は、強い人たちの良心の立場だけにあるのではなく、また弱い人たちの良心の立場を傷つけないようにというところにもあります。弱い立場に置かれた人とは、自分の行動を意のままにできない人たちのことです。何らかの理由で、自分の思い通りにいかない制約を受けている人です。常識や、その場で支配している力関係で、自由のきかない立場にいる人です。
「兄弟」という言葉は大きな意味を持っています。神によって贖われた者同士ということです。「弱い者や見栄えのしない者、見たところ役に立たない者をキリスト者の共同体から閉め出すことは、まさに、貧しい兄弟の姿をとって戸をたたきたもうキリストを閉め出すことを意味する。だからわれわれはこの点をよく注意しなければならない」(ボンヘッファー「共に生きる生活」)
そこでパウロは自分自身にとって「どうでもいいこと」である偶像への捧げものである肉を食べることについて、「兄弟をつまずかせないために、私は今後決して肉を口にしません」(13)という重大な決意を述べています。そこではこのことは決して「どうでもいいこと」ではないのです。同じくキリスト者の自由の中から出発しながら、兄弟に対する愛の故に、ここでパウロは兄弟のために、律法に縛られる奴隷になることに甘んじたのです。キリストに奴隷となってもらったからです。