今週の説教要旨

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2011年5月15日

「神の掟を守ること」

榎本栄次 牧師

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 7章 17-24節

 信仰は修練による倫理や道徳とは違います。神の側からの働きに身をゆだねていくことです。自分のことでいろいろ悩みますが、変えようとしても変わらないものがある。あああればよいのに、こうあって欲しいと、人と比較して悔むことも多いものです。人にはそれぞれ差や違いがあります。ある人は5タラントン、ある人は3タラントン、あるいは1タラントンと。しかしそれは神様から頂いたものであり、神はそれを責めたりなさらない。その置かれた状況の中でどう神に応答していくかということが問われるのです。

 パウロはコリントの教会の人たちに対して、「召されたままでいなさい」と勧めています。召されるということは、神からの呼び出し(calling)と言い、職業という意味もあります。モーセも(出エジプト4)、サムエルも(サムエル上3)、エレミヤも(エレミヤ1)皆神様から呼び出された人々です。イエスの弟子たちも同じです。彼らは皆、決して自信満々で主の呼び出しに応えていったのではありません。むしろ逆に自分の非力を思い、その召しにふさわしくないと言って、恐れました。神モーセにエジプトの奴隷であるイスラエルの民を解放するようにと命じました。モーセはその時「ああ主よ、わたしはもともと弁が立つ方ではありません。」と断っていますが、主は「いったい誰が人間に口を与えたのか」と言っています。(出エジプト記4:10以下)エレミヤも主から召命を受けた時、「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」(エレミヤ1:6)と言っています。それに対して主はエレミヤに「若者と言ってはならない」と諫めています。コーリングの主体は神です。神は人それぞれにタラントンを与え、働きを求めておられます。

 ある人は結婚し、ある人は独身者として、ある人は奴隷として、またある人は自由人として神はそれぞれを召されたのです。そう言うと神は奴隷制度を容認しているのか、差別を容認しているのかと捉えられがちですが、そうではない。そのところで召された状態で神に従うことを勧めているのです。賛美歌に「我をこのままに救い給え」というのがあります。「我をこのまま」は「わがまま」とも聞こえます。しかしそれは全く反対です。我が主人になるのが「わがまま」、神が主になるのが「我をこのままに」です。こんな状態では神の前には出られない、という気持ちになりますが、逆なのです。召されたままの姿で主の呼びかけに応えることです。「十字架を負って我に従え」とはそのことです。自分の弱さである十字架を背負ってキリストのところに行くことが、「召されたまま」であり、主の掟を守ることです。あの人のようであったら、あのような人がいるから、私はあれもできない、これもないといろいろ不足や違いが気になります。それらがみな満足いくようになったら神様に従いましょうというのは召された者の姿勢ではありません。

 教会にはユダヤ人と異邦人、割礼を受けた者と受けていない者、結婚している者、していない者と様々に混ざり合っており、それが混乱の元になっていました。しかしキリストにあっては割礼があってもなくても問題ではない。主に召されるということは、そこでそのままで主の呼びかけに応えていくことが可能であり、それが勧められています。

 ヘーゲルに「ヒック ロードス ヒック サルトゥス」(ここがロードス、ここで跳べ)という言葉があります。イソップ物語からの話で、「ロードス島で俺はオリンピック選手も驚くような跳躍を見せた。ロードスに行ったら聞くといい」と豪語していた男がいました。一人の少年が、「ロードス島に行かなくてもここで証明できるよ。ここがロードスだ。ここで跳んでごらん」といったと言うことです。今置かれた現実の中で生きることの大切さを説きました。

 「ここが世光。ここで踊ろう」。召されたところで、召されたままで、神の掟を守りましょう。

日本基督教団 世光教会のご案内

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。