2011年5月8日
「代価を払って買い取られた体」
榎本栄次 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 6章 12-20節
「イエスは主なり」というキリスト者の告白は、キリスト以外の一切のものから解き放たれるという自由の宣言でもあります。私たちはキリスト・イエスの贖いによって罪許されて生きた者とされました。キリスト教倫理はここに根ざしています。私たちのルーツは土の塵です。形はできても命はなく、空しい存在でした。その土の塊に神の息が(聖霊)吹きかけられ、生きた者となったのです(創世記2:7)。もはや空しい存在ではなく、かけがえのない神の聖霊を宿す神殿とされました。この言葉にキリスト教の人間観が集約されていると言えるでしょう。
主の復活の後、7週間、弟子たちは「上からの助け」を待ち、ひたすら祈っていました(ルカ24:49)。キリストがいなくなるのは、弟子たちに上からの聖霊を送るためでした。弟子たちはその約束を信じて、エルサレムに留まっていたのです。こんな恐ろしいところから逃げ出したい。ふがいない自分たちは何の力もない。それに対してユダヤ人たちの力は大きく、恐ろしい。できることなら知らない場所、自分たちを歓迎してくれるところに逃げ出したかったことでしょう。
私たちは自分のことをどう思っているでしょうか。自分の体を誇りに思い、喜んでいるでしょうか。それとも恥ずかしがり、否定的に思っているでしょうか。どちらにしてもこの私という存在は、その能力や性格も含めてすべて神様からの預かりものです。やがて滅び去ってしまう空しい存在です。しかしまたこの体は、キリストの十字架によって贖われ、かけがえのないものへと変えられたのです。パウロは私たちの体のことを「知らないのですか。あなたがたの体は、神から頂いた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(19)と言っています。教会が神の聖霊の住まいとするならば、私たちの体も自分のものではなく、神の栄光のために用意された器なのです。だからこの体をその目的、志に従って整えなければなりません。その時にこそ私たちは自由を得ることができます。
16世紀の宗教改革者マルチン・ルターはキリスト者の自由について二つの命題を挙げました。
1.キリスト者は、あらゆるものの最も自由な主であって、何者にも隷属していない。
2.キリスト者は、あらゆるものの最も義務を負うている奴隷であって、すべてのものに隷属している。
この相対立する二つの命題は、どこで可能なのでしょうか。人がどんなに頑張ってみたところで共存できないことでしょう。それは神の助けである聖霊において初めて可能になる世界です。人が自由になるのは、目的を自分に置かないことです。人という字が示すように、相手を支えることによって支えられます。自分が自分だけのために存在しようとすると、よく見ると、人の奴隷になっていることに気付きます。問題はその状態が、奴隷であるか自由人であるかではなく、自分の中に志があるかどうかではないでしょうか。この世界のために、あの人のために何ができるでしょうかという志を掲げたときに、自由な発想が生まれ出てくるのです。自分の好みや、主義主張を超えて相手の徳が高められることを望むのです。この世のあらゆる権威から、また自分自身から解き放たれて相手のことを考えるようにされます。その助けが聖霊です。
この世界の中で起きていることで自分に関係のないことは一つもないでしょう。たとえ自分の生活に直接関係のないことであっても、そこで起きていることは、私にとって無関係な事柄ではありません。キリスト者は、すべてのことに隷属しています。そのために祈り、働く愛の自由こそ、キリスト者の自由です。
「すべてのことが許されている」「すべてのことが益になるわけではない」。許されているのは自分のためではありません。隣人のために許されている他者中心の自由です。自分の体だからといって勝手にしていいというのではありません。神の聖霊の住まいとされたこの体は、隣人に仕える器として清められたのです。教会が聖霊を頂くことにより、神の宮とされたように、私たちもまた聖霊を求めつつ神の住まいとして自分の体を整えていきたいと思います。