2011年4月17日
「内部から正す」
榎本栄次 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 5章 9-13節
神の働きは教会の中にとどまらず、世界のすべての事柄について関わりを持ちつつ進められています。それを「神の宣教」(ミシオ・デイ)と言い、私たちはそれに参与し、協力するのです。
本日の礼拝は、世光保育園の職員と共に守っています。世光教会の成り立ちは、世光保育園から始まりました。そして世光保育園は世光教会から始まっています。どちらが先というよりも、車の両輪のように育てられてきたのです。現在、世光福祉会としてベデスダの家の働きへと広がりを見せています。保育園は世光教会によって支えられ、守られてきました。また世光教会は世光保育園によって支えられ、守られて来たのです。保育園がなければ、世光教会はありませんでした。その働きは教会の宣教の一環であり付属物ではありません。そこで働く人は宣教の担い手であり、宣教者です。両者は、主従関係にあるのではなく、神の宣教にとって互いに無くてはならない存在です。ある時は支えられ、ある時は引きずられ、ある時は回り道をし、足踏みさせられながら、それによって互いが正しい方向に導かれてきたのです。それは寄り掛かり合う関係でなく、支え合う関係です。教会は、この世から抜け出すのではなく、この地域に根ざし、人びとに向かってイエス・キリストと神の愛を証しする共同体です。この世とまったく同化するのではなく、この世にいながらこの世から隔離されたものであり、この世の光となるのです。そこには自己に対する厳しい規律が求められるでしょう。法的には社会福祉法人と宗教法人とに区別されていますが、両者は一体でなければなりません。教会の人も、保育園の人もここをしっかりと認識しておいてください。昨日保育士会の総会があり、そこで、「今、保育に求められているもの」という講演を聴きましたが、(民秋言)小学校に行く前のこどもの力をつけるのは保育士の「共感する心である」と聞きました。なるほどと思います。
主イエスは子どもを祝福して、これをつまずかせる者は、首に挽き臼をくくって海に落ちる方がいいといいました。子どもの成長を援助することは尊い神の業であり、これに共感することこそ祝福された人であり、これを邪魔するものはイエスさまに叱られます。
使徒パウロはコリントの教会の人たちに対して、厳しい要求を投げかけました。それは「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい」(5:13)というものです。外部の人ではない、仲間の中にいる「みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、人の物を奪う者がいれば、つき合うな。そのような人とは一緒に食事もするな」(11)ということです。その人の罪と言うよりも、そこにある一人一人の魂が活かされるためです。主イエスは「片方の手か足が、あなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい」(マタイ18:8)と言われました。それは迷い出た一人の命を得るためです。
パウロが「わたしに倣う者になりなさい」(4:16)と言うとき、パウロのような理想的人格者に倣えと言っているのではありません。むしろ人びとから「世の屑、すべてのものの滓」(4:13)と言われていることに倣えという意味です。キリストにお任せするのです。私たちは正しいことは求め、主張もします。しかしそこで止まりがちです。それを始めると、馬鹿、滓と呼ばれるからです。キリストになろうとして、愚か者と呼ばれるので、すぐ止まるのです。人の機嫌を取るようになりことが曖昧になるのです。「神の宣教」に任せられないからです。自分のうちから悪い者を追い出す信仰が求められます。
1967年、日本基督教団は「第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を公にしました。ちょうど私たちが牧会に出るときであり、大きな課題を背負わされ、そこにまた教会の希望も抱きました。そのことで教会には大きな混乱に巻き込まれ、愚か者のようになりました。しかしこのことは私たちになくてはならない痛みではないでしょうか。ある意味で「悪いものを追い出す」ことでした。内部から正すことが求められています。それはお思い煩いを捨てて、神に委ねることです。