2011年3月13日
「固い食物」
榎本栄次 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 3章 1-9節
宮城沖での大きな地震で、多くの方が大変な被害に遭っておられます。神様が共にいてお支えくださることを祈りつつ、私たちもできる支援を小さくてもやって行きましょう。
幼子の食べる柔らかい食物は口当たりはいいのですが、力になりません。大人としての力には固い食物が必要です。使徒パウロは「乳を飲んでいる者は だれでも幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです」と言っています(ヘブル5:13)。またコリントの教会の人びとに「わたしはあなたがたに、乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした」と言っています(2)。近頃の子どもは、固い食事が苦手で柔らかな食事が多いようです。そのためにあごがスマートです。それが体に悪いことが嘆かれています。信仰についても同じことです。信仰の喜び、力は固い食事を取るようなものです。私たちの信仰は、神の恵みに応え、神の歴史に参与していくことです。自分中心から神中心に切り替えるのです。それが固い食事になります。
パウロは「キリスト(にある)との関係」(1)という言葉をよく使います。「それはキリスト者の別称にほかならない」(コンツェルマン)。「キリストにある」ことは「キリスト者である」人間の信仰よりもより深くより重い事実、「キリストにある」という事実によって生きている者のことです。信仰は、この事実に呼び覚まされ、その事実に感謝に満ちた確信であり、告白です。そこから転換が始まるのです。
この教会がなおどのような幼子であるにしても、彼らは「キリストのもの」(23)であり、そのいのちは「キリストと共に神のうちに隠されている」(コロサイ3:3)のに変わりはありません。このただ一点において、信頼と、希望と、兄弟愛が生まれてくるのです。何という情けない状態なのだろうと思われても、なお信じ期待するもの、それが「キリストにある」のです。
キリストにある者は、自分自身についても同じ確信を与えられます。彼は自分について「分に応じて働く」(5)神の奉仕者であることを自覚します。それ以上でも以下でもない、それ以外であろうとしなくていい。「あの人はどうか」「この人と比べてどうか」と比較したりしなくてもいいのです。彼らは自分の知恵を誇りにしません。神の栄光を目的にします。自分のことを「パウロは何者か」と言います。「あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者」に過ぎません。いわば主の道具です。道具である金槌が家を建てるのではありません。大工さんが建てるのです。私たちは肥料をやったり、種を蒔きますが、生長させてくださるのは神様です。神様の働きがなければ何の意味もありません。
使徒はその分に応じて一生懸命に努めます。「成長させてくださる神」がいてくださるからです。力を尽くして、あるいは植え、あるいは水を注ぎます。成長させてくださる神がいるからです。どんなにすばらしい道具も家を建てられる神の前では無に等しいことを自覚しているのです。そこでは共に「神の同労者」なのですから。この「神の同労者」とは、「神と共に働く者」「神への奉仕における同労者」などの解釈がありますが、いずれも神の御委託による畏れ多い役割です。
この働きにおいて権威があり、王としではなく、僕として仕えるのです。ここでは自分の名前が大切なのではなく、また自分たちの群れが名誉を得ることではなく、神の栄光こそを望むのです。「キリストの代理人」ではなく、神の宣教・働きに奉仕する僕としての権威を持つのです。すべての人に仕え、何者にも隷属しない権威です。
「成長させてくださったは神です」(6)という認識が神の共同体を作るのです。そこから受ける食物こそ固い食物と言えるでしょう。そこでは「肉の人」を「霊の人」とし、「ねたみ争い」や「遠慮、世辞」から「憐れみ」と「厳しい批判と高め合い」の共同体へと変えられるのです。「神の業」という認識を欠くとき、教会は「ただの人」の群れに成り下がります。
とても重要なことをするときには、ケンケンガクガクの議論が必要です。イエスマンでは本当のことに出会えません。信頼するから責めることができるのです。乳を飲んでいる幼子から、善悪の判断ができる固い食物をいただける者とされましょう。