今週の説教要旨

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2011年2月6日

「神の愚かさ 人の賢さ」

榎本栄次 牧師

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章 18-26節

 信仰は人格です。板や石を刻んだ神ではなく、人格関係を結ばれる神さまを信じるのです。神と私たちとの関係が親子にたとえられたり、夫婦にたとえられたりします。それは喜びや楽しみと共に、苦しみや恥ずかしさ弱さを共にするのです。そこに神がいます。 使徒パウロはコリント教会の人たちに対して「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」と言っています。神に弱さや強さがあるのでしょうか。人間の一番賢くて一番強い人と神の一番愚かなで一番弱いところとを比較しても神の方が賢くて強いと言うのでしょうか。そうではありません。神様が私たちの弱さを引き受けてくださることです。

 この「神の愚かさ」「神の弱さ」は、「宣教の愚かさ」(21)のことであり「十字架につけられたキリスト」(23)を示しています。「十字架の言葉」を人びとに宣教する時、決してみんなから尊敬されません。無視と馬鹿にさます。じっとしている弱さや愚かさではなく、キリストを信じそれに従う私たちの愚かさであり、私たちの弱さです。

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を求める」(22)とあります。「しるし」は人の目を引く大きな業です。「知恵」はこの世界を納得させる高邁な哲学です。人から尊敬され、びっくりするようなことをやり遂げることがしるしであり、知恵です。私たちもできることならそういうものを手に入れたいと願います。それが伝道になると思うのです。しかし伝道の業の実態は、偉大な事業や高邁な哲学に比較して頼りないものです。パウロが言うのは、それらと比べてキリストの方がより立派だと言っているのでもありません。神様がその愚かさを引き受けてくださることによって、それがこの世の知恵や力に勝るのです。私たちが傍観者で、どちらがすごいかと言うのでは信仰にはなりません。

 「神の愚かさ」は教義の内容ではない。信徒の実態です。キリストに従う神の言葉である「十字架の言葉」が愚かで弱いのです。それは私の愚かさです。「十字架の言葉」は、私たちに刻まれた神の痛みです。私の弱さ、私の愚かさを神様はご自分のこととして引き受けてくださり、神の愚かさ、神の弱さとしてくださいます。ですから私たちがどんなに弱くても、どんない愚かで人に馬鹿にされたとしても、神様はそれをご自分のこととして引き受けてくださり、必ず栄光に変えてくださいます。この世の知恵や力はどんなに優れていたとしても、神様のみ手の中にある。私たちがどんなに大きな失敗をして人に迷惑をかけたとしても、その愚かさを神の愚かさとして引き受けてくださる。そしてそれを栄光に変えてくださいます。「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい」(マタイ5:39)と言うのは倫理や道徳ではない。キリストの故に可能になるのです。

 コリントの教会は、パウロによって始まった群れですが(使徒言行録18:1-11)その後、アポロが伝道し(同19:1)、ペテロの影響を少なからずう受けていたようです。そして外には迫害の手があり、厳しい状況におかれていました。そうした中で、教会に分裂が起こっていたのです。ある人たちはパウロに、ある人たちはアポロに、ある人はケファにつくと。さらに悪いことに「私はキリストに」という状態でした。そこでは異邦人と同じように「しるしや知恵」を競っていました。

 信仰はキリストの恵みにつながることです。神様との人格関係を築くことです。キリストの救いがこの私の現実になることです。

日本基督教団 世光教会のご案内

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。